kawakitaさんとaraikenさんの、内田さん批判をめぐるやりとり 資本主義社会における贈与とは反抗することである 内田樹氏のエントリー「不快という貨幣」関連の言説は「俗流若者論」か? についてちょっと思ったことを書いてみたいと思います。 kawakitaさんは、誤読に基づく内田バッシングのようなものが存在すると感じておられて、araiさんの一連の内田批判も、そのようなものとして捉えているようです。しかし、araiさんの内田さん批判は、kawakitaさんが言うように「誤読から仮想敵を導出して自分の批評性を確保するという振る舞い」ではまったくないと私は思います。araiさんの思想からすると、内田さんの主張はどうしても批判せざるを得ないものであり、だからこそaraiさんは批判しているのだと思います。むしろkawakitaさんの方が、araiさんの主張を誤読しているように思えるのです。