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2016年10月3日のブックマーク (3件)

  • 日本の「歴史の長さ」の議論から、神話や歴史の性質について

    最初は単純な説へのツッコミなのですが、そこからの神話学、「国家の成立と連続性」の定義、主権、平田神道の歴史、…などなど、派生の仕方が大いに面白いです。

    日本の「歴史の長さ」の議論から、神話や歴史の性質について
  • 大学の研究力低下 交付金削減もう限界 西尾章治郎 大阪大学学長 - 日本経済新聞

    大阪大学の西尾章治郎学長は、国の運営費交付金の削減が国立大学の研究力の停滞を招いている一因だとして、公的な基盤的経費の維持・拡充が必要だと訴える。大学の社会的な存在意義が、教育法等の定めるとおり「学術の中心」であることは、改めて言うまでもない。多様で独創的な学術研究は「国力の源」であり、年1月に策定された第5期科学技術計画によれば「イノベーションの源泉」と位置づけられる。ゆえに、日

    大学の研究力低下 交付金削減もう限界 西尾章治郎 大阪大学学長 - 日本経済新聞
  • たとえ話で議論をしないことが常識になってほしい

    たとえ話は、一見すると分かりやすい。 しかし、多くの場合、議論におけるたとえ話は、欺瞞をはらんでいたり、議論を拡散・混乱させる効果しかない。 例えば、「AはBであるか否か」の議論をしていたとしよう。 ここで、「AはBである」という論者が、Cのたとえ話をするとき、そこには、 ①AはCにたとえられる(A≒C) ②CはBである ③①及び②ゆえにAはBである という論理が背後にあるはずである。 大抵の場合、たとえ話においては、②については異論がでにくいようなCが設定されるので、問題は①である。 (ときどき、②すらあやしいたとえ話もあるが、それは措く。) 多くの場合において、①A≒Cと言えるかどうかは議論の余地があり、たとえ話によって結局、議論が拡散してしまうのである。 そもそも、①及び②が当然に認められるなら、「AはBである」ということにほとんど疑いはなく、「AはBであるか否か」ということが議論に

    たとえ話で議論をしないことが常識になってほしい
    ShoCoh
    ShoCoh 2016/10/03
    たとえ話はたとえ元/先に対する「話し手-聞き手双方の理解度」が高くないと、伝達できる情報がかなり減衰するからそもそも伝わらなくなるんだよなあ