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投資関連に関するSyunrouのブックマーク (681)

  • 第31回 福富太郎(その一)ついた異名は、「キャバレー太郎」。あの高級旅館が毎年彼に魚を贈る理由(福田 和也) @gendai_biz

    福富太郎さんと親しくさせていただくようになったきっかけは、永井荷風と和倉温泉の加賀屋との縁からだった、と思う。 誰に誘われたのか、池袋の『キャバレー・ハリウッド』で、毎年荷風の忌日である四月三十日『つゆのあとさき忌』が催されるので、という事でお伺いしたのだった。 三田の文学部にとって、永井荷風は格別な存在で―なにしろ、文学部の初代教授なのだから―当然、仏文科の教授から学生までが、荷風を崇拝しているのである。 福富さんは、荷風はキャバレーの恩人だ、と仰った。荷風はキャバレーの原型であるカフェに頻繁に通い、『つゆのあとさき』でその風俗を活写したから。 そうして加賀屋の話になった。 毎年、荷風の忌日に、見事なノドグロが加賀屋からハリウッドに送られてくる、というのだ。 それは、関根歌さんの絡みではありませんか、と福富さんに申し上げた。 関根歌は、女出入りの激しい荷風の生涯において、もっとも荷風が愛

    第31回 福富太郎(その一)ついた異名は、「キャバレー太郎」。あの高級旅館が毎年彼に魚を贈る理由(福田 和也) @gendai_biz
  • 第4回 渋沢栄一(その一)携わった営利事業は五百余り。日本型資本主義の始祖に訪れた「転機」(福田 和也) @gendai_biz

    近代における、日の経営者像を考えた時、まず最初に指を屈するべきが、渋沢栄一である事には異存がないだろう。 公共道徳としての儒教を重んじた、浮利を追わず、社会に貢献する日型資主義の始祖とされる渋沢は、経営者としてのみならず、思想家としても高く評価され続けている。 山路愛山―徳富蘇峰の盟友として、民友社で活躍した―は、「一にも渋沢さん、二にも渋沢さん」と簡潔にその気品と人格を賛美している。 「明治維新より明治十年までの日の経済界は、唯だ零細の資のありしのみ。尤も旧幕時代の遺物たる金持の世家、三井、住友、鴻池など云ふものは、其頃にても巍然として財界の雄たりしに相違なかりしかども、此等は大抵維新の大暴風雨に辛うじて難船を免れたるものゝみにて、未だ元気を恢復せず、其外は翁(引用者注、渋沢栄一のこと)の所謂卑屈なる町人のみなり。(中略)井上馨は或時代に日町人の総元締なりき。政府の大蔵大臣、

    第4回 渋沢栄一(その一)携わった営利事業は五百余り。日本型資本主義の始祖に訪れた「転機」(福田 和也) @gendai_biz
  • 第27回 遠山元一(その三)新聞に躍る言葉「株式ブーム」---一般市民が投資熱に見舞われた時代とは() @gendai_biz

    昭和二十三年、新証券取引法案が連合軍総司令部の承認を受けた。翌年、GHQから昭和二十年に出されていた、取引所再開禁止の覚書きの撤回についての声明が発表された。 証券取引法の成立に鑑み、取引所を会員組織とする事が決定された。同時に同法の運用に当たる証券取引委員会が発足した。 委員長は、日証券取引所総裁、貴族院議員等を務めた証券界の大立者、徳田昂平。元一は理事会議長に収まった。 しかし実際の取引への道のりは遠く、昭和二十四年四月二十日になって、ようやく取引所再開の条件である、三原則が、GHQ証券担当官から提示された。 一、会員は上場銘柄の取引に於いては、すべて取引所で行う事。 二、取引所における取引は、すべて行われた順序に従い取引すること。 三、先物取引を行わないこと。 かくして、昭和二十四年五月十六日、証券取引所は立会を再開した。 ところが当時の日経済は、GHQ経済顧問ジョセフ・ドッジの

    第27回 遠山元一(その三)新聞に躍る言葉「株式ブーム」---一般市民が投資熱に見舞われた時代とは() @gendai_biz
  • 第26回 遠山元一(その二)病気に苦しみ人の弱さを実感― 大儲けする陰で「教会」に駆け込んだ(福田 和也) @gendai_biz

    明治四十四年、遠山元一は、半田商店を辞めて、市村商店に移る事になった。 事の顚末には、以前から患っていた盲腸が関わっている。七月の暑い盛り、盲腸がいよいよ激しく痛み、元一は駿河台の山龍堂病院に担ぎ込まれた。 体質のためなのか、なかなか麻酔が効かず、手術は、結局、四時間半に及んだ。母の美以は、手術の次第を報告し、忙しいなか仕事を休んだ事を支配人の半田貞三に詫びた。 半田は、手術の首尾を訊ねる事すらせずに、元一は、生意気で、怠け者で、人付き合いが悪い、などと罵詈雑言を浴びせたのだった。母を侮辱された元一は、半田を辞め、市村商店に移った。 市村は、いわゆる「才取り」の店である。 「才取り」とは、証券取引所の市場での売買を媒介して、売買注文の付け合わせを行う、小規模の証券業者のこと。 市村商店は、主人の市村と元一の二人きりだった。 元一が、「才取り」で稼ぎ、市村が事務を司る、という営業形態だったけ

    第26回 遠山元一(その二)病気に苦しみ人の弱さを実感― 大儲けする陰で「教会」に駆け込んだ(福田 和也) @gendai_biz
  • 第25回 遠山元一(その一)だまされる幸福―人間通の「株屋」が、日興證券を創業する前夜(福田 和也) @gendai_biz

    日興證券の初代社長、遠山元一は、その著書『兜町から』で、「だまされる幸福」という随筆を書いている。 「倫理や道徳の基準はいかなることがあつても曲げてはいけないと思う。しかし世の中は理窟通りに動かぬ場合が多いのである。そこに義理人情の入りこむ隙がある(中略)つまらぬことだと分つていながら、つい、ほだされるのである。だからこれは、よいとかわるいとかいうよりも、やむを得ない現実に押されての諦めであり悟りであるとも見られる。私は、だまされることを誇りとしたり、奨励したりするのではない。同じ後味のわるさといつても、だました方とだまされた方では大きな開きがあるだろう。だまされることは質的に云つて不名誉なことではないと思う」 此処には、人情家という水準を超越した、人間通、世間通の面目がある。 音楽評論家、遠山一行氏は、その父の面影を、こう記している。 「父には、特にこれといった逸話はない。少なくとも私

    第25回 遠山元一(その一)だまされる幸福―人間通の「株屋」が、日興證券を創業する前夜(福田 和也) @gendai_biz
  • 【米国の不動産王ドナルド・トランプ(2)】教師を殴った「悪ガキ」が、売り家の改装修理に巨費を投じた理由(福田 和也) @gendai_biz

    【米国の不動産王ドナルド・トランプ(2)】教師を殴った「悪ガキ」が、売り家の改装修理に巨費を投じた理由 小学生の頃から、自己主張が強かった、とドナルド・トランプは語っている。 二年生の時に、音楽の先生を殴った。その理由は、先生が音楽について、何も分かってない、と思ったからだという。 いわゆる悪戯者の悪ガキで―成功者は、だいたいそう主張するが―、そのために軍隊式の私立学校、ニューヨーク・ミリタリー・アカデミーの、八年生に編入した。 学校は、性に合った。 自分がふんだんに持っている攻撃性を建設的に用いる事を学んだという。 士官学校を卒業した後、ブロンクスのフォーダム大学に入った。フォーダムは、イエズス会が運営している大学である。 その後、ペンシルヴェニア大学のウォートン校に願書を出し、入学にこぎつけた。 ウォートン校は、ジョン・スカリー元アップルCEOや、レナード・ローダー(エスティ・ローダー

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  • 【ドナルド・トランプ(1)】節操のない米国の不動産王。「一軒家」を売るという父の創造性に学んだ(福田 和也) @gendai_biz

    ドナルド・トランプは、なかなかに愉快な男である。 少なくとも、自分がトランプである事を愉しんでいるのは間違いないし、それ以上に稼ぐ事を愉しんでいる。 「大方の人は私のビジネスのやり方を見て驚く。私は気楽に仕事をする。アタッシェケースは持ち歩かないし、会合の予定もあまりぎっしり入れないようにしている。可能性を多く残しておくのが私のやり方だ」(『トランプ自伝』ドナルド・J・トランプ&トニー・シュウォーツ/枝松真一訳) しかし、何よりも魅力的なのは、客観的にみれば、節操がまったくないように見える事だ―ジョージアに住む六十七歳の農夫が、農場を守るために自殺をした、という事件に激昂し、そのが所有する農場の競売を撤回しなければ、殺人罪で銀行経営者を告訴する、と脅す一方で、自分ではホリデイ・インの株を買い占め、無能な経営陣がなんとか独立を守ろうとする努力を嘲笑して止まない事だ。 「ホリデイが私を厄介払

    【ドナルド・トランプ(1)】節操のない米国の不動産王。「一軒家」を売るという父の創造性に学んだ(福田 和也) @gendai_biz
  • https://jp.techcrunch.com/2013/06/18/20130617accel-closes-100m-for-big-data-fund-2-to-invest-in-the-second-wave-of-big-data-startups/

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  • 第12回 小林一三(その三)「宝塚歌劇団」の生みの親は、商工大臣としても辣腕を振るった(福田 和也) @gendai_biz

    多岐にわたる分野で活躍した小林一三は、多くのエピソードを残している。いずれの挿話も、その面目を表すものになっている。 たとえば、毎日新聞社の名物記者だった阿部真之介。自らの恐ぶりをテーマにした連載エッセイで評判をとっていた。 阿部は宝塚沿線の池田駅近くに長く住んでいた。池田は、一三が分譲した住宅地で、一三も自宅を構えていた。 当時、新聞記者は、優待パスを箕面有馬電気軌道から支給されていたと云う。 まだ、そんなに乗客が多くない時代で、阿部たちは毎日、座って梅田まで通っていた。 一三は、毎日、車内では立っていた。 ある日、たまたま、電車が混んでいた時があった。阿部が座席に座っていると、一三がやってきて、「君、立ってくれんか」と云う。 とっさに何を云われているのか分からなかった阿部が、なんでですか、と問うと、一三は、 「君は只じゃないか」と返してきた。 御人が立っているのだから仕方がない、阿

    第12回 小林一三(その三)「宝塚歌劇団」の生みの親は、商工大臣としても辣腕を振るった(福田 和也) @gendai_biz
  • 第11回 小林一三(その二)大阪を起点とする「最も有望なる電車」。その一大事業を賑やかに宣伝した(福田 和也) @gendai_biz

    小林一三は、二十歳から十五年間、三井銀行に勤務した。二十一歳の八月、日清戦争がはじまると、広島に大営が置かれ、一三は大阪から広島への現金輸送に従事している。 そして、二十三歳の時、岩下清周が、大阪支店長として赴任した。岩下との出会いは、言葉のあらゆる意味で、一三にとっては巨きなものだった。岩下は、今は半ば忘れられた存在だが、関西の財界史を語る上で、逸する事の出来ない巨頭である。 信州松代に生まれ、東京商法講習所に学んだ岩下は、母校で教鞭を執った後、明治十一年、三井物産に入社、アメリカ、フランスに在勤し、品川電灯会社を創立した功績で財界の信認を得て、三井銀行の支配人となった。 岩下の融資方針は大胆きわまるものであった。鉄商として名を馳せた、津田勝五郎にたいして、たびたび巨額の当座貸し越しを見逃していた。また、これまで銀行が融資をしなかった、北浜の株式市場や堂島の米相場にも、資金を提供した。

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  • 第10回 小林一三(その一)百貨店や不動産を鉄道で統合する---世界に類を見ない「独創的」経営者(福田 和也) @gendai_biz

    近代日の経営者、財界人のなかで、最も独創的なのは誰だろう---。 と、云う問いをたてるとする。 明治以来、あまたの財界人が澎湃と登場した。この連載であつかった松下幸之助、渋沢栄一をはじめとして、岩崎弥太郎、益田孝、中上川彦次郎、原三渓、松永安左衛門・・・・・・。 それぞれが強力な個性をもち、価値ある事業を作りあげた人物だが、こと独創的という事になると、評価は難しい。 彼らは欧米の経営者たちが作りあげたビジネス・モデルを真似て、わが国の文化、風土に馴染むように手を加え、適合させた。 資源も金もないわが国を、一流の工業国、貿易国にした、先人たちの偉業は尊敬に値するのは、間違いない。とはいえ、その「偉業」が輸入品であり、コピーであり、模倣品だったという事もまた、否定できないだろう。 そんな中で、只一人、世界的にも類例のない、独創的な経営者と、正面から呼ぶことが出来るのが小林一三である。 現在、

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  • 第9回 ヘンリー・フォード(その三)T型フォード---その莫大な利益は、顧客と労働者に還元した(福田 和也) @gendai_biz

    一九〇八年三月十八日、T型フォードのカタログが、ディーラーに配布された。 T型の特徴は、ヨーロッパ式の右ハンドルではなく、左ハンドルに固定されたこと。第二にトランスミッションがボディに収納されたこと、第三点としてシリンダーを一つのブロックにまとめたこと、そして軽量で硬質のバナジウム鋼がふんだんに用いられている、という事だった。 だが、もっとも衝撃的だったのは、その価格だった。ビュイック、シボレーといったライバルに決定的な差をつける、八百二十五ドルという低価格に設定されていたのである。 発売日は、十月一日だった。 T型は半年で、二千五百台余り売れた。 当時としては、大ヒットである。 注文は膨らむばかりで、生産力の向上が焦眉の急となった。 フォード社は各種のメーカーから部品を調達していた。T型の爆発的ヒットは、個々の部品メーカーの生産能力では到底追いつかない、莫大な需要をもたらした。ヘンリー・

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  • 第6回 渋沢栄一(その三)心からの使命感で被災者を援助した。誰とでも面会し、親身に助言した。(福田 和也) @gendai_biz

    経済史家、島田昌和によれば、渋沢栄一が関わった社会事業、公共事業は、六百あまりに上るという(『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』)。 そこに企業経営者と別の面目があったのは確かなことだ。しかし、渋沢には、慈善家といったイメージには収まらない、心底からの義務感、使命感があった。 関東大震災の時。 地震の翌日、渋沢は書生たちを指図して、罹災者に対する救護策を講じていた。 心配した次男の武之助が、社会主義者に扇動された暴民が、富裕な人々を襲っているという噂を伝え、故郷の血洗島に避難して欲しい、と頼んだという。 渋沢は云った。 「馬鹿な事を云うな、儂のような老人は、こんな時いささかなりとも働いてこそ生きている申し訳がたつものだ。それを田舎に行けなどと卑怯千万な!」 二日後、渋沢は、大震災善後会副会長になり、東京市内を駆けまわった。 ∴ 渋沢は、最初の千代がなくなった翌年、後に伊藤兼子を迎えている。

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  • 第3回 松下幸之助(その三)敗戦の喪失感---平和と幸福の実現を目指した松下は、「研究所」をつくった(福田 和也) @gendai_biz

    第3回 松下幸之助(その三) 敗戦の喪失感---平和と幸福の実現を 目指した松下は、「研究所」をつくった 第2回はこちらをご覧ください。 松下幸之助を語る上で、その実業家としての手腕とは別に、社会運動家としての側面を無視する訳にはいかない。 戦時中、松下幸之助は、「特攻の父」大西瀧治郎にその創意と生産技術を認められ、畑違いの海軍艦艇から、ついには飛行機までも生産する羽目になった。 もちろん、祖国の命運をかけた戦争にたいして、参加し貢献するのは、近代国家の国民としては、当然の事だろう。 とはいえまた、結局、敗北してしまったという事実は強い喪失感をもたらしたし、国土と人心の荒廃は大きな衝撃と悲しみをもたらした。 たしかに、来の事業である家庭電器製品の製造に復帰できたという事は、大きな悦びだったに違いない。けれども、松下は、戦争という暗い雲が通り過ぎた後にも、電器メー カー経営者という立場から

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  • 第2回 松下幸之助(その二)「三百年残る建物を」軍需による絶頂期、幸之助が自宅に巨費を注いだ理由(福田 和也) @gendai_biz

    第1回はこちらをご覧ください。 大正七年三月、大阪市北区西野田の大開町、わずか二間の松下電気器具製作所を設立して以来の、幸之助の歩みは多くの人が知るところだろう。 大正十二年に自転車ランプを売り出し、昭和に入ると「ナショナル」ブランドをたちあげ、アイロンなどの電熱部門を発足させ、四年の世界恐慌も住友銀行の融資をうけて無事乗り切り、六年には家庭用ラジオ販売をはじめ、八年には事業部制を導入するとともに、社を門真に移転させている。 十年には株式会社化して松下電器産業株式会社に改組、と成長してきた。 ∴ 戦前日の大きなターニング・ポイントが、昭和十二年である、という事については、大方の認識は一致しているだろう。 同年六月四日に第一次近衛内閣が発足したが、その一ヵ月後、盧溝橋事件をきっかけに、日華事変が勃発、八月には上海に戦火が飛火している。 政府も大営も、小規模の軍事衝突にすぎず、短期間で終

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  • 第1回 松下幸之助(その一)誰が一番、お金を巧く遣ったのか---政経塾に七十億を費やした「商人」(福田 和也) @gendai_biz

    にあまた、金持はいるが、一番、金の遣い方が巧かったのは誰だろう---。 そう云った問いを立ててみた時に、まず指を折るべきなのは、松下幸之助ではないか。 私が、松下に関して「巧い」と思うのは、松下政経塾を作った、一点に拠っている。 松下よりも金を稼いだ人、儲けた人は沢山いるけれども、「巧い」というポイントからすれば、政経塾の設立によって、自らの死後も、長期にわたって、日政治と経済に影響を与え続けているという事だ。 現在、松下政経塾出身の政治家は、衆議院議員三十一名、参議院議員七名、都県議会議員十三名、市区町村議会議員十五名、知事一名、市長八名という陣容であり、所属党派は多岐にわたるが、一大勢力である事は間違いないだろう。 しかも、政経塾は全寮制なので、塾生たちは起居を共にしているわけだから、その連帯感、同志的な結合は、いまや日社会では珍しい、濃厚かつ堅固なものになっている。 これだ

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  • 第24回 山崎種二(その三)橋、倉庫、日本画。株で儲けて貯金した「ケチ種」のカネの投じ方(福田 和也) @gendai_biz

    種二は、「ケチ種」と呼ばれていた程のしまり屋だったが、金を投じる時には思い切りがよかった。 徴兵検査で帰郷した際、高崎の鏑川で川止めにあったという。その時、橋があれば、皆が不自由しないのに、と思った。 昭和五年の金解禁相場で大儲けしたので、宿願を果たし、星川橋と塩畑堂橋を架け、その道を県道にして貰い、当時、内務大臣だった安達謙蔵に開橋記念の碑文を揮毫してもらった。 自ら架けた橋に、後年種二は助けられる。 太平洋戦争のさなか、荷物を疎開する時、家財道具と美術品を積んだトラックで、塩畑堂橋を渡る事が出来たのである。 昭和六年、種二は、兜町と麹町三番町に、土地を買った。独立してから、十年間は建築しない、と種二は決めていたという。 そうして、建築資材を扱っている会社の株を買った。鉄筋建築には丸棒が必要なので、日鋼管の株を買い、セメントのために浅野セメントと云う具合に、日立、東京電燈と株を買ってい

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  • 第23回 山崎種二(その二)婚礼3日前に留置場へ連行―その翌月には、株価が「大暴落」して(福田 和也) @gendai_biz

    大正九年二月十七日、山崎種二は、萩原ふうと結婚式を挙げた。 種二のプロポーズにたいして、ふうは、柿をむきながら頷き、釘を刺した。 ---あなたは、今、お米屋さんで働いてらっしゃる。あなたに娶っていただくのはよいけれど、いつまでも今のままでは、嫌ですわ。ただのお米屋さんの奥さんには、なりたくありません・・・・・・。 ふうの祖父、山口六平は、新島襄の薫陶を受けたクリスチャンであり、娘二人を神戸女学院に通わせ、長男六兵衛を同志社に入学させている。 山口家は、かつては真田街道一番の豪商と云われて、蔵を四十棟も抱えていたというが、当主の六平が損得を考えず、公共事業のために家産を傾けたため、山口家は破産同様の身になってしまっていたのである。種二は、山口家の建て直しを担う事になったのだった。 婚礼は、芝の紅葉館で行われることになった。原敬率いる政友会の面々が、夜ごと集う、東京一の料亭であった。 しかし、

    第23回 山崎種二(その二)婚礼3日前に留置場へ連行―その翌月には、株価が「大暴落」して(福田 和也) @gendai_biz
  • 第22回 山崎種二(その一)「相場の神様」と呼ばれた実業家―彼の無一文からの上京物語(福田 和也) @gendai_biz

    アベノミクスのせいか、株式市場は久しぶりに盛況を呈している。『週刊現代』に、「カネ学入門」を連載している藤原敬之氏も、テレビに、雑誌に引っ張りだこだそうだ。 残念ながら、私は株券を触った事もないという人間で―父親は、かなり嵌まっていたが―、投資のスリルも、面白さにも縁はない。 それでも今回、山崎種二をとりあげたのは、山崎という人物が、典型的な、立志伝中の人物であり、また、莫大な財産を持ちながら、美術や学校経営に私財を傾けた人であるからだ。 その人間像の面白さにより、城山三郎が種二をモデルとした『百戦百勝 働き一両・考え五両』を書き、飛車金八や筆内幸子が、その評伝を書いている。 明治二十六年十二月八日、群馬県高崎在の山崎宇太郎の長男として、種二は生まれた。 祖父の代までは豊かで、百姓ながら名字帯刀を許されていたというが、秩父騒動で家産を失い、宇太郎は水呑み百姓になってしまった。 種二は、生ま

    第22回 山崎種二(その一)「相場の神様」と呼ばれた実業家―彼の無一文からの上京物語(福田 和也) @gendai_biz