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ブックマーク / philo1985.hatenablog.com (146)

  • 哲学とは、絶えることのない「自己との対話」に他ならない:実存論的分析の歩みから垣間見えてくる、思索者のエートス - イデアの昼と夜

    私たちはこれまで、「死へと関わる存在」の日常的なあり方について見てきた。今や、ここから遡って死の実存論的概念を完成させることによって、「死へと関わる来的な存在」の方へと進んでゆくための準備を完了させる時である。 これまでの分析において、死の可能性はすでに、「①最も固有な②関連を欠いた③追い越すことのできない可能性」として露呈されていた(この点については、12月2日付の記事を参照されたい)。日常性における人間存在のあり方を振り返りつつ、ここに次の二つの規定が付け加えられることによって、この可能性の画定がようやく完了し、私たちの目の前には、「死の実存論的概念」の完全な形が浮かび上がってくることになる。 ④ 死の可能性とは、「確実な可能性」である。〈ひと〉はたとえば、「人間、誰もがいつかは死ぬものだ」と折に触れて口にしており、この意味では日常性なるものも確かに、死の確実性を承認しているようには

    哲学とは、絶えることのない「自己との対話」に他ならない:実存論的分析の歩みから垣間見えてくる、思索者のエートス - イデアの昼と夜
  • 「存在の意味への問い」:Sein zum Todeの概念において、賭けられているもの - イデアの昼と夜

    論点: 死の現象は『存在と時間』が提起している「存在の問い」そのものにとって、根源的というほかない重要性を持つものである。 ハイデッガーの言葉を借りるならば、死ぬこととは人間にとって、現存在することの「不可能性の可能性」を意味している。すなわち、現存在であるところのわたしにとって、死とは、もはやわたしが世界内に存在することができなくなるという法外な可能性を指し示すものに他ならないのである。 『存在と時間』の真理論についてすでに論じたことを、ここで思い起こしておくことにしよう。現存在であるところの人間にとって、真理の現象とは一言で言い表すならば、「覆いをとって発見すること」に他ならないのだった。 現存在であるところのわたしは、世界内に存在することのうちで、街を、風を、大地を発見する。真理とは、わたしが〈ある〉を見出すというそのことであり、その意味で、「存在」と「真理」という言葉は切り離すこと

    「存在の意味への問い」:Sein zum Todeの概念において、賭けられているもの - イデアの昼と夜
  • 『存在と時間』の根本テーゼ「実存の各自性」:「現存在であるところのわたしは、他の誰でもない『この人間』としての生を生きることのうちへと呼び出されている」 - イデアの昼と夜

    「死はそのつど私のものである」という『存在と時間』第47節の表現は、この自体の道行きを考える時には、きわめて重要な意味を持ってくる。なぜなら、このの探求が格的に開始される第9節の時点において、ハイデッガーはすでに、次のように書きつけていたからだ。 「この存在者にとってはじぶんの存在においてそれが問題である、当の存在は、そのつど私のものである。[…]現存在の呼びかけは、この存在者が有するそのつど私のものであるという性格にあわせて、つねに人称代名詞とともに、『私がいる』『きみがいる』というように言わなければならない。」(『存在と時間』第9節より) いわゆる「各自性」と呼ばれる論点である。私たちは、探求が「死へと関わる存在」を規定しようと試みている今のこの時においてようやく、この「実存の各自性」が事象そのものに即して真に問題とされうる地点に到達しつつある。 すでに見たように、現存在、すなわ

    『存在と時間』の根本テーゼ「実存の各自性」:「現存在であるところのわたしは、他の誰でもない『この人間』としての生を生きることのうちへと呼び出されている」 - イデアの昼と夜
  • 「わたしが、去りゆく『その人』と決して分かち合えないこと」:共同相互存在の臨界点 - イデアの昼と夜

    現存在、すなわち人間の「死へと関わる存在」は、どのように規定されるのだろうか。この点を明らかにするにあたってハイデッガーがまず指摘するのは、次の論点にほかならない。 論点: 私たちは人間の「死へと関わる存在」を解明するために、他者たちの死という事例を手がかりにすることはできない。 現存在であるところの人間は死ぬともはや世界内に存在しなくなってしまうのであるから、死という現象に接近するためにはわたし自身ではなく、他者たちの死に手がかりを求めることが有効なのではないかと考えることは、自然な道行きであろう。しかし、ハイデッガーによれば、この方策はこと死という現象に関しては、有効なものではありえないのである。どういうことだろうか。 いま、生きていて、これからもまだ生き続けるであろうわたしが、死にゆく一人の人と共にその場に居合わせるとする。わたしとその人とは親しい間柄で、最後の大切な時を過ごしている

    「わたしが、去りゆく『その人』と決して分かち合えないこと」:共同相互存在の臨界点 - イデアの昼と夜
  • 実際のところ、どう解釈されてきたのか?   ー9条と自衛隊 - イデアの昼と夜

    「憲法からは外れているみたいだけれど、自衛隊って、とりあえずできちゃったんでしょう」。私たちはみなそのことについて、多かれ少なかれ知っています。それでは、私たちの国の政府はこの自衛隊なるものを、日国憲法第9条2項との関係において、いったいどのように解釈してきたのでしょうか?今日は、その歴史を大まかにたどってみることにしましょう。 まずは、自衛権について確認しておくことにします。1946年6月28日時点では、吉田茂首相は、「この憲法は自衛権も否定している」との立場を取っていました(!)。しかし、1951年10月18日衆議院では、彼は以前の発言をくつがえすような形で、「自衛権を否認したというような非常識なことはないと思います」と主張することになります。もちろん、自衛戦争もOKである。やりたくはないが、いざという時にはいたし方ないのである。 それよりも頭が痛かったのは、自衛隊の問題でした(その

    実際のところ、どう解釈されてきたのか?   ー9条と自衛隊 - イデアの昼と夜
  • ワンフレーズで憲法を変える   ー9条2項と芦田修正 - イデアの昼と夜

    1946年の3月には、国民たちはすでに日国憲法の大まかなプランを知らされており、新しい憲法にむけての期待を高めていました。そののち正式に提出された憲法案は、明治憲法のもとでの選挙によって選ばれた議員たちによる衆議院の審議において、検討されることになります。今回の主題となるのは、同じ年の7月25日から8月20日にかけて行われた、憲法改正案特別委員会での出来事です。 この委員会で委員長をつとめた芦田均は、9条の条文にたいしてある修正を加えました。その修正は、その時には大きな議論を引きおこすことはありませんでしたが、1952年になってから芦田は、この修正はまさにこの国の根幹にかかわるものであったのだと主張しはじめます。 「あまりはっきり言うと通らないだろうから工夫したのだが、私が行ったこの修正によって、日は戦力を持てるようになったのだ。」政治と法律はつねに、スリリングな形で絡みあう。芦田修正

    ワンフレーズで憲法を変える   ー9条2項と芦田修正 - イデアの昼と夜
  • 戦力をまったく持たないはずの国   ー9条の条文を読んでみる - イデアの昼と夜

    まずは、9条の条文を見てみることにしましょう。この条文は、二項に分かれています。 ① 日国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 国家の政策として戦争を行うことはしない。この1項もとても大切なものではありますが、実はこの規定だけなら、フランス、ドイツ、イタリアなどのヨーロッパ諸国にも見られるものです。9条を9条たらしめているのはむしろ、次の2項のほうであると言われています。 ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 これはすごい。法律にまったく詳しくなくても、一見しただけで、この規定がとてつもないものであることがわかります。この条文を素直に読むならば、私たちの国は、およそ戦力をまったく持たないことになる。たと

    戦力をまったく持たないはずの国   ー9条の条文を読んでみる - イデアの昼と夜
  • 憲法第9条へのイントロダクション - イデアの昼と夜

    ① 日国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 日国憲法第9条 上の条文はこれまで、憲法というだけでこの第9条のことを指すことまであるというくらいに、私たちの議論の主題となりつづけてきました。もちろん、集団的自衛権にかんする今回の問題も、この条文にかかわっています。私たちの国のなかで、世論を二分してしまうほどにデリケートな主題はそれほど多くありませんが、9条の場合には、まさにこのことが当てはまります。皮肉なことではありますが、この条文は私たちに、「平和ではなく剣をもたらしてきた」とさえ言えるかもしれません。 けれども、このシリーズでは、何らかの立場を擁護したり、別の

    憲法第9条へのイントロダクション - イデアの昼と夜
  • Sein zum Tode:反対論への回答 - イデアの昼と夜

    17世紀の哲学者であるスピノザの主著『エチカ』の第4部定理67は、次のようになっている。 『エチカ』第4部定理67: 自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の知恵は死についての省察ではなくて、生についての省察である。 哲学が思索するべきは生きることの方であって、死ぬことではない。このように主張するスピノザはエピクロス派の人々と同じく、「死を想え」の教えに対しては否定的な立場を取っているということができるだろう。一般に、何らかの自然主義的な哲学を奉じている人々には、こうした立場へと至る内的な必然性が存在することは確かである。 題に戻ろう。「人間が存在する時には死は存在せず、死が存在する時には人間は存在しない。従って、死は人間にとって『何物でもない』。」このようなエピクロス派の人々の主張に対してはおそらく、『存在と時間』は次のように答えるものと思われる。 エピ

    Sein zum Tode:反対論への回答 - イデアの昼と夜
  • 「非常にセンシティブで、慎重を要する問題」:「死へと関わる存在」の分析へ - イデアの昼と夜

    実存の来性の圏域へと踏み入ってゆくにあたって最初に問われるのは、人間の「死へと関わる存在」に他ならない。 論点: 『存在と時間』の第二篇第一章のタイトルは、「現存在の可能な全体的存在と、死へとかかわる存在」となっている。 哲学史に残っているテクストの中で死を主題的に取り扱った論考というのは、実はそれほど多くない。ましてや、学問の探求の対象としてこの主題を論じたものとなるとその数はさらに少なくなってくるわけで、この『存在と時間』第二篇第一章は稀少な例外の一つであると言えるであろう。おそらくは、哲学を学んでいる学生が「死」という主題について先人たちが何を言っているのかを知ろうとする場合、まずはこの『存在と時間』にぶつかることになるといった実情になっているのではあるまいか。 一体なぜ、死についての論考はこれほどまでに少ないのだろうか。さまざまな理由が考えられるが、その最も大きなものは率直に言っ

    「非常にセンシティブで、慎重を要する問題」:「死へと関わる存在」の分析へ - イデアの昼と夜
  • 生はその秘密を、「恐るべきもの」の後ろに隠す:「自由のめまい」としての不安 - イデアの昼と夜

    不安の気分をめぐる分析は、「可能性に関わる存在」としての人間の姿を浮き彫りにしつつある。しかし、このことは、生の経験それ自体と、それを描き出す実存論的分析の間に結ばれる、一筋縄ではゆかない関係の存在を指し示さずにはおかないのではないか。 不安とはキルケゴールの卓抜な表現を借りるならば、その実体においては「自由のめまい」に他ならない。すなわち、不安を感じる人は、自分自身が抱え持っている可能性がその人自身にとってあまりにも大きすぎるために、いわば立ちくらみを起こしているわけである。この現象においては、その人自身に与えられている自由の可能性が、その人を脅かす深淵となって当人を飲み込んでしまっているといえる。 ところで、このことはほとんどの場合には、不安を感じている当人には意識されることがない。つまり、不安を持つ人は言うまでもなく、「わたしは今、自由のめまいを感じている」と思ったりすることはほとん

    生はその秘密を、「恐るべきもの」の後ろに隠す:「自由のめまい」としての不安 - イデアの昼と夜
  • 「現存在は〈ここに〉いるのではなく、〈あそこに〉いる」:ハイデッガーの空間論 - イデアの昼と夜

    私たちは前回までで、『存在と時間』の世界論については論じ終えた。今や私たちは現存在、すなわち人間について、世界内存在という語を自由に用いることができる。人間は、世界内存在する。すなわち、人間は世界のうちで、そのつど常にすでに適所性のネットワークのうちで持ち場を得てしまっている物や道具との関わりを持ちながら、実存するという仕方で存在しているのである。 このように世界内存在する存在者である人間には当然のことながら、空間性という性格が帰属している。ここでは、『存在と時間』におけるハイデッガーの空間論を詳細にたどることはしないけれども、彼の哲学的思考のあり方を如実に示していると思われる以下の一文を手がかりにしつつ、その空間論の中身を少しだけ覗いておくことにしよう。 「現存在がその空間性に応じてさしあたり存在しているのは、だんじて〈ここに〉ではない。〈あそこに〉である。」(『存在と時間』第23節)

    「現存在は〈ここに〉いるのではなく、〈あそこに〉いる」:ハイデッガーの空間論 - イデアの昼と夜
  • 不安が露呈させるのは、「剥き出しの生」にほかならない - イデアの昼と夜

    ハイデッガー自身の言葉を手がかりにして、さらに不安の分析を進めてゆくこととしたい。 「不安の〈なにをまえに〉は完全に未規定的である。[…]手もとにあるものや目のまえにあるものにかんしては、世界内部的に、その適所全体性が覆いをとって発見されるけれども、そうした適所全体性は、そのものとして総じて重要性を持たない。適所全体性は、それ自身のなかに崩れこむ。世界は完全な無意義性という性格を有することになる。」(『存在と時間』第40節より) 現存在であるところのわたしは、その日常性においては、わたしの世界が形づくる存在者のネットワークのうちで場所を得ている。家や仕事場、自分の住んでいる街、あるいは、机や床やコーヒーカップ、等々。こうした存在者のうちで絶えず「自分のなすべき作業や仕事」を与えられ、さらには周囲世界に共に住んでいる他者たちにも囲まれて、〈ひと〉の一員として、世界を形づくる輪の一環となってい

    不安が露呈させるのは、「剥き出しの生」にほかならない - イデアの昼と夜
  • 例外状態の政治哲学:ジョルジョ・アガンベンの思考と、2021年のグローバル秩序の現在 - イデアの昼と夜

    不安の現象に格的に足を踏み入れてゆく前に、一つの論点を確認しておくことにしたい。 論点: これより後に扱われることになる「不安」「死」「良心の呼び声」の現象は、生の例外状態的次元とでも呼ぶべき領域の存在を指し示している。 今回と次回の記事ではこの論点を、私たちと同時代の哲学者である、ジョルジョ・アガンベン(1942〜)の仕事と重ね合わせながら見ておくことにしたい。 1995年から2014年にかけて行われたアガンベンの「ホモ・サケル」プロジェクトは、これまでの近代政治哲学の伝統が、政治の営みなるものを限定的な視野からしか捉えてこなかったことを明らかにした。このプロジェクトにおいては、近代政治哲学が「政治」として考えてきたものはいわば、通常運転モードにおける政治のプロセスを指し示すものにすぎなかったとされるのである。 ホッブズからロック、ルソーにかけての社会契約論の系譜が浮き彫りにしたのはい

    例外状態の政治哲学:ジョルジョ・アガンベンの思考と、2021年のグローバル秩序の現在 - イデアの昼と夜
  • 生きることはたえず、滑り落ちてゆく:存在忘却の根源にあるもの - イデアの昼と夜

    現存在であるところの人間は、日常性においては常にすでに、世界の方へと頽落している。この「頽落」の機構との関連で考えるとき、「現存在は非真理のうちに存在している」というすでに見たテーゼは、さらに深い射程を示すようになると言えるのではないか。 ① 頽落は、わたしが〈ひと〉の支配に身を委ねることによって確定的な傾向になるとともに、それ以上の結果をもたらす。すなわち、わたしはもはや、わたし自身の最も固有な存在可能から遮断されてしまうというだけではない。わたしの世界への開かれは、開かれていることの見せかけへと変質させられてしまうのである。 〈ひと〉のあり方は、「空談」「好奇心」「曖昧さ」の三つの現象によって特徴づけられたのだった。わたしが〈ひと〉として見、聞き、語りながら日常を生きるとき、世界に対する真正な開かれ(吹いてくる風、わたしが住んでいる街、隣人の言葉)は絶えず、別のものへとすり替えられてし

    生きることはたえず、滑り落ちてゆく:存在忘却の根源にあるもの - イデアの昼と夜
  • 一つの時代が終わるとき - イデアの昼と夜

    「曖昧さ」について論じている『存在と時間』第37節にハイデッガーは、非常に印象深い一節を書きつけている。その箇所を、ここに引用してみる。 「ほんとうにあらたに創造されたものが、その積極的な可能性において自由になるのは、覆いかくす空談が効力を失い、『共通の』関心が死に絶える、ようやくそのときになってからなのである。」(『存在と時間』第37節より) 〈ひと〉は「空談」と「好奇心」の機構に基づいて、さまざまなことを語る。実に色々な事柄が取り上げられ、さかんに論じられるけれども、〈ひと〉が当に気づかっているのは他の人々が今、一体何について論じあっているのかを知ることであって、事柄それ自身のあり方を真正な仕方で知ることではない。一つの時代はそうやって、〈ひと〉のあり方を気づかう〈ひと〉の果てしのないおしゃべりと共に、過ぎ去ってゆく。 しかし、そうやって一つの時代が終わろうとする時に、驚くべきことが

    一つの時代が終わるとき - イデアの昼と夜
  • 「わたし」がいない世界:頽落の概念について - イデアの昼と夜

    日常性におけるわたしはそれと気づかないうちに、〈ひと〉の支配に身を任せてしまっている。このことから、わたしは、わたし自身が生きているこの世界に対して、ある特異なあり方で存在しているということが帰結せざるをえないのではないか。 わたしは日常において、〈ひと〉が楽しむことを楽しみ、〈ひと〉が憤激することに憤激する。わたしはいわば呼吸するようにして「空気を読んでしまっている」のであって、現存在であるところのわたしはそうやって、〈ひと〉の平均的なあり方をたえずそれとなく気づかっているのである。 このような実存のあり方には、〈ひと〉と同じであることの安心を与えてくれるところがあることも事実である。しかし、どうなのだろうか。わたしがそうやって〈ひと〉のあり方に身を任せてゆくたびに、「他の誰でもない、わたし自身として生きてゆく」可能性の方は同時に、少しずつ遠ざかっていっているのではないか。 わたしが仮に

    「わたし」がいない世界:頽落の概念について - イデアの昼と夜
  • 「開かれていることの見せかけ」としての公共空間:ハイデッガーの〈ひと〉論の射程 - イデアの昼と夜

    日常性における人間の実存は〈ひと〉によって引き受けられ、〈ひと〉によって支配されているのではないだろうか。これからこの問題を問い進めてゆくにあたって、最初に一つの論点を確認しておくこととしたい。 論点: 『存在と時間』においては、〈ひと〉、そして公共性という語はもっぱら、その否定的側面において捉えられている。 先に断っておくならば、公共性に対するこのようなアプローチの仕方は少なくとも、哲学の伝統においては「正統派」に属しているといえる。哲学者たちは、たとえ公共性なるものを擁護する側に立つことがあるとしても、同時に、そこに鋭い疑念のまなざしを向けながらそうしてきたのであって、もしも哲学者がナイーブかつ無批判的に公共性の次元を受け入れるようなことがあるとすれば、哲学の伝統からすれば、むしろその方がずっと不自然であると言えそうである。 「人間は、一人でいるときにはしっかりとものを考えるけれども、

    「開かれていることの見せかけ」としての公共空間:ハイデッガーの〈ひと〉論の射程 - イデアの昼と夜
  • 「驚くことのフェイク」による誘惑:好奇心の原理的構造 - イデアの昼と夜

    「空談」に続いて、〈ひと〉のあり方を示す現象である「好奇心」の内実を探ってみることにしよう。この現象についても、すでに見た真理論の裏面として事柄を見わたすという観点が、非常に重要である。 さて、現存在(=人間)であるところのわたしが今、仕事や作業を終えて、義務から解放されているとしよう。わたしは何の気になしにスマートフォンやiPadをいじって、「何かないかな」とぼんやり思いながら、情報やコンテンツが流れてくるのに身を任せるかもしれない。この際にわたしがたとえば、ある存在者Aをめぐる記事なり発言なりに出会ったとする。 注意しておくべきは、この時わたしがAについて「なるほど、AはBだったのか!」といったように、しっかりと何かを学んだり出会ったりするならば、ハイデッガーがここで言う「好奇心」の現象が発生するわけではない、という点である。ややこしい話にはなるが、私たちは「好奇心が旺盛であるのはよい

    「驚くことのフェイク」による誘惑:好奇心の原理的構造 - イデアの昼と夜
    Unimmo
    Unimmo 2021/09/29
  • 「われらとわれらの子孫のために」   ー日本国憲法について考える - イデアの昼と夜

    国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。 日国憲法前文 いま、憲法についての議論が、世の中をにぎわせています。憲法9条と集団的自衛権をめぐるこの問題は、人びとの注目を、この国の全体へと広げつつあります。僕のまわりでも、ふだんは政治にあまり関心を持っていない人たちまでもが、なにかとても大きな問題が起こっているらしいという気配を感じとっているように思います。 私たちはふつう、ある社会問題の重要性の大きさを計るさいには、理屈でうんぬんするよりもまず、その問題を取りまく雰囲気で感じとっています。今回の場合、その雰囲気を言葉によって言い表すなら

    「われらとわれらの子孫のために」   ー日本国憲法について考える - イデアの昼と夜