私、餡子のためなら逆立ちだってしますよ。 こじらせている。 食べたいと思ったら食べたいのである。 ここが北カリフォルニアの片田舎であろうと、私があんみつが食べたいと思えば、あんみつは今すぐ作って食べなくてはいけないものになる。食いしん坊の思考は凄まじい。 子供が観ていたアニメで、赤ちゃんが空の…
山極:動物にとって食は個人的な行為ですが、前編でお話ししたとおり、人間は食をコミュニケーションの手段にするため、他人に公開しました。ところが、性について言えば、動物の場合は、公のもの、つまり見せるものですが、人間にとっては隠すべきものになりました。人は食と性のあり方を、動物とまったく逆にしてしまった。これが人間独自のストレスを生み出す原因になっています。 人間が性を隠したのは、1人の人がいろんな集団に身を置く「集団遍歴」が関係しています。1つの集団として完結するのではなく、複数の集団が寄り合って生きる地域社会を形成する必要が出てきたとき、家族という単位が形成されました。 その家族の中で性交渉が許されているのは夫婦のみで、兄妹、姉弟、親子間では禁止されています。 コミュニケーション手段としての性 --人類学者などの報告から、現在ではインセスト・タブー(近親間の性交渉の禁止)の有無が、「文化」
雑記 | 18:16 | セックスにおける愛撫という行為を考えたとき、どうしても面倒くさいという後ろ向きの考えが頭を過ぎる。要は射精できればいい、そういう短絡に男は唆され勝ちで、他聞に漏れず僕も射精という結果ばかり追い求めてしまう。性器同士をくっつけ、比べものにならないほどの快感を得るのには、実はそれほど入念な愛撫を必要としないからだ。女性器が濡れ、筋肉がほぐれさえすれば男性器を挿入し、射精することは容易だ。だから僕は遠慮を知らず突き上げる衝動の促すまま愛撫に手を抜き、利己的なセックスに終始てしまい勝ちだ。 しかし、三十を過ぎてからそういうセックスの在りようというのが僕のなかで変わってきているように思う。ただ射精を導くための利己的なそれが、確かにそこに存在する相手を感じるものへと変容しているのだ。僕は屹立する陰茎をぶら下げたまま、丁寧に愛撫する。裡では射精の悦び目掛けて打ち震える衝動が渦
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く