●今月の「新潮」に乗っている椹木野衣の論考がつまらないのは、「うまい/へた」という価値観を相対化しようとして、結局その単純な二元論を強化してしまっているだけだからだ。(椹木氏がうまうま、とか、うまへた、とか言う時、おそらく糸井重里の、ヘンタイよいこ、とか、セイジョーわるいこ、とかの分類が頭にあるのだろうが、そこには糸井氏の分類にあった、既成のものとは全く別の価値観の設立のようなものはなにもない。)椹木氏が「うまい絵はつまらない」と書く時、そこには驚くほど単純な価値の転倒しかなく、根本的な問いかけ、価値の相対化はまったくみられない。例えば椹木氏は、うまい絵について次のように書いている。《線に迷いがなく、色づかいに屈託がないということは、言い換えれば技法が内面化して、ことさらには問われることがないということであり、極端に言えば「手癖」で描いているということだ。つまり「うまい絵」がつまらないのは