ちなみに、この名称変更は旧大蔵官僚には最大の「屈辱」。省庁の前に掛かる看板は、当時の大臣が揮毫するのが通例だが、大蔵官僚出身で「最後の大蔵大臣」となる宮沢喜一氏はそれを拒み、コンピュータの楷書体になったといわれているほどだ。 そんな財務省の誕生とともに、経済財政諮問会議が設置された。'01年4月に発足した小泉政権では、竹中平蔵氏が経済財政担当相に就任した。このとき官邸には、竹中氏管轄の経済財政諮問会議を軸に、財務省から予算編成方針を奪い取るという思惑があった。 一方、財務省はこうした新しい動きに対抗。財界で圧倒的に顔がきき、ある意味で竹中氏よりも「上手」といえる経団連会長を財政審のリーダーに据えた―というのが当時の顛末であった。 財務省の焦りだがこの財務省の思惑は小泉政権にねじ伏せられる。 竹中氏は、小泉首相の強い支援を受け、新しい経済財政諮問会議を舞台に「骨太の方針」を打ち出し、事実上予
