ブックマーク / toshifujiwara.blogspot.com (2)

  • アモス・ギタイ『ヴッパールの谷で Dans la vallée de la Wupper』

    題名は室町時代の禅僧・夢窓疎石の言葉で「別に工夫なし」。ここはそんな境地にいつか到達したい、日ではまだ有名でない映画監督・藤原敏史が勝手に愚痴ってるブログです アモス・ギタイ『ヴッパールの谷で Dans la vallée de la Wupper』1993 昨年の東京フィルメックスと東京日仏学院でのフィクション映画中心の特集上映に続き、アモス・ギタイの今度はドキュメンタリー作品が、アテネ・フランセ文化センターで上映中だ。 アモス・ギタイ 越えて行く映画 Amos Gitai:L’esprit de l’exil インスタレーション/ドキュメンタリー 1月25日〜2月9日 アモス・ギタイ『フィールド・ダイアリー』1982 アモス・ギタイ『殺人のアリーナ』1996 95年11月に暗殺されたラビン首相のレア・ラビン これまで「イスラエルを代表する映画作家」というくくりで見られて来たこともあ

    アモス・ギタイ『ヴッパールの谷で Dans la vallée de la Wupper』
  • 『ほんの少しだけでも愛を』と大阪の人たちの差別について

    題名は室町時代の禅僧・夢窓疎石の言葉で「別に工夫なし」。ここはそんな境地にいつか到達したい、日ではまだ有名でない映画監督・藤原敏史が勝手に愚痴ってるブログです 藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中) どうも今の日の「差別」をめぐる悲劇の根幹は、出自や民族、生まれつきの“障害” などで「生まれながらに差別される人々」がいることではないらしい。 逆に「マジョリティ」の側に自分が「生まれながらに差別する側なのだ」と思い込んでいるビョーキな人が多いことに、質的な問題があるらしい。 でも当にそんなことがこの社会の「差別」の質だとしたら、非常にアホらしいわけで、しかも救いがない。 被害者が生まれるのは一方的に加害者側の責任でしかないが、加害者の側はただ自分の考えを再検証して、差別なんてアホなことをやめればいいだけなのだ。 なんで自分でまずできる、遥かに楽なことをやらないで「俺

    『ほんの少しだけでも愛を』と大阪の人たちの差別について
    Youth_Labo
    Youth_Labo 2011/01/17
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