はじめて新書を書いた。 数百部を印刷し、完売すればスゴイといわれる専門書とはケタ違い(それも二桁違い)の読者を相手にすることになる。 そこで執筆のスタイルも専門書とは変えてみた。事実のみを淡々と論述し、著者の主義主張はあまり表に出さないほうが奥ゆかしいとされる(?)専門書の書き方とあえて違え、最初から最後まで著者小島毅の主義主張てんこ盛りの「檄文」調である。 檄文で何を訴えたかは木戸銭(六八〇円+税)を払ってくださらなければ教えるわけにはいかないが、ちょっとだけそのサワリをお話ししてみよう。 関東生まれの関東育ち、徳島での四年間をのぞいて箱根から西では生活したことのない人間が、ものごころついて歴史に興味を持って以来、ず〜っと疑問に感じていたことへの異議申し立てをしてみたのだ。「明治維新は日本にとって必要だったのか?」と。 「歴史にイフはない」と言われる。でも、ほんとにそうだろうか? もし本
小泉首相のおかげで、靖国神社のあり方、ひいては戦没者の追悼のあり方をめぐる議論が、これまでになく活発になっている。 ここまでの伝統的な靖国論争では、政教分離問題やA級戦犯の合祀の問題などを発火点に、最終的には先の戦争をどう捉えるかに帰結することが多い。先の戦争を不当な侵略戦争だったと捉える人は、首相の靖国参拝を戦前回帰への兆候とみて警戒し、その戦争には問題はあったとしても一定の大義もあったはずだと考える人は、靖国を大切にしなければならないと考える。だいたいそんな図式だ。 しかし、靖国問題を独自の視点から検証した『靖国問題の原点』の著者で、自身の祖父が靖国神社が一宗教法人として生き残る道を選択した時の内務大臣だったという因縁も持つ三土修平東京理科大教授は、その論理立てが的はずれであることは、GHQの占領のもとで靖国神社がなぜ今日のような法的立場に置かれるに至ったかを歴史的に検証すれば自ずとは
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く