「右傾化」が世界的に進んでいるといわれる中で、異民族による協和は果たして実現可能なのか疑問符が浮かぶ。それでも、可能性はある。それを示すのが「建国大学」の卒業生たちだ。1932年から1945年の間、現在の中国東北部に一つの国があった。「満州国」である。その建国の際、日本人・漢人・...
![「中国では2度取材を中断されました」――新聞記者が追いかけた満州国の若者たちの戦後](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/a5cd803fa4659013dd7dcf7e9465af2157e4442c/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fwww.sinkan.jp%2Fimages%2Flarge%403x%2F576214fd06f43.png%3Fv%3D2016-06-16T11%3A54%3A53%2B09%3A00)
日中戦争当時、傀儡国家・満州国の最高学府として設立された国策大学が「満州建国大学」である。満州国の将来の指導者たる人材の育成と、満州国の建国理念である「五族協和」の実践の場として、日本人・中国人・朝鮮人・モンゴル人・ロシア人といった様々な民族から選抜された若者たちが6年間寝起きを共にしながら切磋琢磨する。すべて官費で賄われ授業料も免除という条件の良さもあり志願者が殺到、2万人の中から選ばれた150人が入学を許されるという狭き門で、まさに彼らはスーパーエリートだった。 満州建国大学は「五族協和実践の成果」を国際社会に発信するための広告塔でもあった。国際化をうたいながら在校生はほとんど日本人だった各地の帝国大学とは違い、日本人は定員の半分に制限され、残りは各民族に割り当てられる。カリキュラムも日本語や中国語の他、英語・ドイツ語・ロシア語・モンゴル語等々自由に学ぶことが出来、禁書扱いになっている
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