戎と百太夫 約千年前、平安朝末期の『伊呂波字類抄』十巻本(増補本)に摂津国広田社を揚げ、その摂末社の中に夷(エビス)と百太夫の名が見える。つまりこの当時にはすでに「えびす」と「百太夫」信仰の社があったとわかる。 また文献上の初見である。「えびす」と「百太夫」の関係は西宮の人形操りに求められる。 西の宮の人形操りは古くから西宮の産所に居住していた「くぐつ」(傀儡師)の一団で、人形操りを特技としながら、えびす社の日常の雑用に奉仕していた人たちであった。平素は奉仕をし、時に応じて周辺地域に出掛けて人形操りを演じ、多くの人たちを楽しませていたのである。「くぐつ」の人々は神社に奉仕することで経済的援助を求め、神社に密接に結びついていた。そして自らも百太夫を尊崇し、えびす社のかたわらに一社を建立していたのだろう。 西の宮の人形操りと傀儡師 日本の「くぐつ」について書かれた古い文献として平安朝末期の大江
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