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ブックマーク / tiiibikuro.jugem.jp (2)

  • 西宮の傀儡師① | 妄想オムライス

    戎と百太夫 約千年前、平安朝末期の『伊呂波字類抄』十巻(増補)に摂津国広田社を揚げ、その摂末社の中に夷(エビス)と百太夫の名が見える。つまりこの当時にはすでに「えびす」と「百太夫」信仰の社があったとわかる。 また文献上の初見である。「えびす」と「百太夫」の関係は西宮の人形操りに求められる。 西の宮の人形操りは古くから西宮の産所に居住していた「くぐつ」(傀儡師)の一団で、人形操りを特技としながら、えびす社の日常の雑用に奉仕していた人たちであった。平素は奉仕をし、時に応じて周辺地域に出掛けて人形操りを演じ、多くの人たちを楽しませていたのである。「くぐつ」の人々は神社に奉仕することで経済的援助を求め、神社に密接に結びついていた。そして自らも百太夫を尊崇し、えびす社のかたわらに一社を建立していたのだろう。 西の宮の人形操りと傀儡師 日の「くぐつ」について書かれた古い文献として平安朝末期の大江

    西宮の傀儡師① | 妄想オムライス
  • 西宮の傀儡師④ | 妄想オムライス

    西宮操りの終末 やがて産所村にあった操り芝居の小屋は西宮札場筋の北、今在家に移され、天保の末ごろには操り小屋から普通の芝居小屋となり、逆にこれを借用して上演するようなことにもなり、たがてこの小屋も取りこわされてしまう結果となる。 また、明治に入って一時わずかに技を伝えた吉田吉五郎(通称、人形吉)芸名吉田伝吾は、技倆は相当見るべき者であって、十数人で一座を組織し、毎年、春秋に灘目一帯から三田・名来・昆陽・池田方面へ巡業していった。 はじめに「三番叟」を出し、つぎに「太閤記」、「朝顔日記」・「阿波の十郎兵衛」などのうちで得意とする段を演出した。浄瑠璃語りはその土地土地の者を採用した。 伝吾は明治十二年三月に七十歳で終わった。跡目はその弟子吉田小六(名、越木音松)が継承して、明治十四年、戎社の屋根替え完成祝いの時に境内で十日間も巡行したが、その後はとかく不振で、まもなく廃業したといわれている。

    西宮の傀儡師④ | 妄想オムライス
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