考え方に関するakemi_12mgのブックマーク (4)

  • 誰にも共感されない暮らし、とは。 - ただのメモ。

    最近のあけみさんの記事に触発されました。 これ、激しくそう思います。 誰にも共感されない暮らしをしてると人の心は狂う。 — あけみダイナミック海の味覚鍋(帆立出汁) (@akemi_0615) 2019年11月28日 先日の勉強会での、小中学生向けアンケートに 「心を打ち明けることができる人はいるか。どこに?」という質問がありました。 SNSの中でも、いきられたらそれでいい。 - keroyonの『続・日々精進』日記 こういう質問があったのだけれど、その隣にね、 「自分の居場所はあるか」という問いもあり、 「心を打ち明けることができる人はいるか」という例の質問と、クロス集計した結果が興味深かった。 もちろん、一番いいのは「居場所があって、打ち明けられる人がいる」。 一番救いがないのが、「居場所もなくて、打ち明けられる人もいない」。これは明らか。 「居場所」と「人」どちらが大切だという結論だ

    誰にも共感されない暮らし、とは。 - ただのメモ。
  • 問題の話。 - ヒダマルのアニメ日記。

    ある問題があったとして、そこへ、解決・改善のために提起したときに必ずと言っていいほど返ってくるのが、「いやいや、そうなってるんだから仕方ないじゃん」 という意見です。 たとえばこちら。 「いじめる側こそ学校に来ないで」出席停止措置は加害者に適用されるべき?(THE PAGE) - Yahoo!ニュース https://t.co/EJ7SUJBtPQ — 春名風花 official (@harukazechan) September 14, 2019 「いじめがつらかったら、学校に行かなくてもいいんだよ」 という被害者への声かけって、これ、逆じゃない? 来は 「他人をいじめるひとは、学校に来なくてもいいんだよ」 じゃない? 現状、おかしくない? ……という提言に、「いじめっ子には教育を受ける権利がないのか!」だったり「いじめっ子を出席停止にするって、いじめにつながるよ?」だったりという意見

    問題の話。 - ヒダマルのアニメ日記。
    akemi_12mg
    akemi_12mg 2019/09/16
    いじめっ子に対しては別のもっと根本的な教育が必要だと思います。「来させない」というよりは特別指導を施すべき、が私が思う事かなぁ。それでも懲りずにいじめるなら「来ない方がいい」ってなりますけど。
  • しつけと称して - ぐわぐわ団

    しつけと称する暴力が後を絶ちません。 「オレ様は正しい」 「お前は間違っている」 暴力の根にあるのはこの考えです。 「オレ様は正しい」 「お前は間違っている」 自分は正しい。だから、何をしてもよいのだと考えて、暴力すら正当化します。 むちゃくちゃな話です。自分が正しいかどうかなんて、誰にもわかりません。日アメリカ戦争を始めたのは「我々が正しい」と考えたからですし、アメリカがベトナムと戦争を始めたのも「我々が正しい」と考えたからです。 「我々は間違っているけど戦争を始める!」なんて聞いたことがありません。 自分が正しいかどうかなんて、誰にもわからない。歴史をちょっとだけ振り返ってみればすぐにわかることです。 「正しい」ほど怖いものはないんです。「正しい」を盾に自分を正当化し、好き勝手するからです。「正しい」を免罪符にして、暴力だろうが、誹謗中傷だろうが、何でも正当化されるような気がす

    しつけと称して - ぐわぐわ団
    akemi_12mg
    akemi_12mg 2019/09/03
    みんなちがって、みんなかわいい。正しいは怖いというのはハッとさせられました。間違った行為をする人を糾弾するとき、確かに自分は正しいと猛進していた気がします。みんなちがってみんなかわいいんじゃ…。
  • 自分の文章がつまんないとか、需要がないとか、判断するのは自分じゃない - ぐわぐわ団

    「わたしの文章、つまんないよね。」 「わたしの文章、需要なんかない。」 ブログなんかで文章を書いていると、だんだん悩みはじめて、こんなことを考えてしまうことがあります。最初のうちは勢いでガンガン文章を書けたけれど、だんだん自分の中でもやもやとしだして、気がついたら手が止まっていたりすることも。 とはいえ、自分の文章がつまんないとか、需要がないとか、判断するのは自分じゃないのです。読んでくれた人がそれぞれ判断すること。文章の価値は自分で決めることじゃないのです。せっかく書いた文章を、生みの親がけなしてどうしますか。 自分では当たり前でつまらないと思っていることが、他の人からしたら斬新でとんでもなくおもしろいことだったりすることもあるはずです。自分の常識が他人の非常識だったりすることも多々あります。自分の持っている、見えないものを見えるようにするのが文章を書くということ。そして人は、その人の書

    自分の文章がつまんないとか、需要がないとか、判断するのは自分じゃない - ぐわぐわ団
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