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『世界のサブカルチャー』が刊行されて一月ほどに経ちます。この本の面白いところは第1章と第3章で、サブカルチャーのいちジャンルとして「アート」を紹介しているところではないでしょうか。それも例えば「アート・建築・家具」と三題噺的に特集を組んだ「Casa BRUTUS」誌(3月10日発売号←これを書いてる時点で出たばかり)などと並べてみれば、やはりどことなくアンダーグラウンドな風合いがあるところに「サブカルチャー」らしさがあるようにおもいます。 さて、私もそうですが、アートと言われるとどうしても身構えてしまいます。ときにはその裏返しでしょうか、あからさまな敵意が見られることもあります(例えば村上隆さんのネットでの叩かれ方に顕著なように)。そういったことは、アートに対する距離感の遠さ、つまり鑑賞するためには美術室に額縁入りで飾られた作品を理解しなければいけないという教科書的というか教養的というか、
Cinra Magazin を見ていたら、mixi の「90年代サブカルチャーの総括」というコミュニティが紹介されていました。90年代ノットデッド派の私は早速読んでみたのですが、その中に音楽についてのトピックもあり、ミッシェル・ガン・エレファントはサブカル的ではない気がするという発言がありました。 これは90年代後半から00年代の日本のロックの変遷を理解する上で、結構重要なポイントではないかと思うので、この問題についての私見を書いてみようと思います。 先ず最初に、サブカル的とはどんなものかを確認しておく必要があるかと思います。サブカルチャーとは元々メインカルチャーに対するマイノリティーの文化を指したようですが、日本では用語の使い方が大分代わっています。Wikipedia のサブカルチャーの項を見ると、以下のような記述があります。 1980年代に入ると、ニュー・アカデミズムが流行し、専門家以
彼女より年長の男たちがこぞって彼女を自分たちの手前勝手な「80年代」に幽閉しようとしていることが、腹立たしくてならない。 (引用者注:太字は引用者による) もちろん、大塚英志や宮沢章夫を批判すること自体は自由だ。 しかし、こういう書き方をされると、大塚英志や宮沢章夫以外の「彼女より年長の男たち」まで「こぞって」同じことをしていると言っているように聞こえてしまうので、抗議しておきたい。 自分も、「彼女より年長の男たち」の一人ではあるが、「彼女を自分たちの手前勝手な「80年代」に幽閉しようとしている」つもりはない。 むしろ 岡崎京子の「90年代」との格闘を引きつごうとする作家がいないことが私には残念だ という気持ちにおいては、【海難記】の筆者と全く変わらるところがない。 だからこそ、岡崎京子のファンサイトを立ち上げたのであり、80年代の終りと90年代の始まりを告げる(と自分が信じる)「リバーズ
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