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ブックマーク / indai.blog.ocn.ne.jp (4)

  • 恐山あれこれ日記

    最近人々の耳目を集めていることにアメリカ発の金融危機があります。私は経済をまともに論じられるような見識を持ち合わせないので、大きなことは言えないのですが、一つ、以前から議論の前提として、ここを誤解するとマズいと思っていることがあるので、若干意見を述べてみたいと思います。 現在の世界で最もひろく受け入れられ、それを最善と考える人が多い経済システムこそ、「自由市場経済」でしょう。したがって、「自由」でない市場は、すべからず「自由化」しなければならない、という議論になります。しかし、ここに根的な誤解があります。「自由市場」と称されるシステムは、その原動力は「欲望」であり、むしろ「欲望市場」と言うべきでしょう。 「欲望」と「自由」は、その違いをはっきり自覚しないとき、大きな災難を招きます。「欲望」の正体は「したいことをする」というものです。しかし、これに対して、「自由」とは「なすべきだと信じたこ

    akihiko810
    akihiko810 2014/07/14
    南直哉
  • 恐山あれこれ日記: 「仏教は科学」ではない

    「仏教は科学」ではない あるものがそのようなものであることの根拠、これを「実体」と言うなら、仏教はそれを認めません。その「実体」を「我(アートマン)」と呼ぶとすれば、すべての存在は「非我」だと言うことは、人間はいかにしても「我」を認識できないという意味になり、認識できないならそれを論じることは全く無意味でしょうから、もはやそれは無いも同然、すなわち「無我」ということになるでしょう。 この「非我」「無我」「空」という考え方は、仏教のごく初期、ゴータマ・ブッダの言葉にも表現されている教説ですが、この教説が陥りやすく、かつ最もわかりやすい解釈は、要素分割主義的なアイデアです。 すなわち、「車」そのもに「実体」はなく、部品の寄せ集めで「車」になっているように、この世のあらゆる存在は、五蘊(色・受・想・行・識)の寄せ集めに過ぎない、と考えるのです。この考え方は、ゴータマ・ブッダの弟子とされる者もすで

    恐山あれこれ日記: 「仏教は科学」ではない
  • 恐山あれこれ日記: 自殺と倫理

    自殺と倫理 人間が「死を選択しうる存在」であることは、善悪以前の事実です。したがって、「生きなければならない理由」も「死んではいけない理由」も、それが理屈である限りは、まったく反対の理屈が成り立ちうるわけで、それは「生死の選択」、すなわち自殺の是非を理屈で決着させることの無意味さを示しています。 このことは、同じ理屈で生死を否定も肯定もできることを考えれば、さらに明瞭になるでしょう。 たとえば、「生きてるって、それだけで素晴らしいことよ!」と言われても、生きている当人は「死を選択しうる存在」ですから、「死の選択」も「素晴らしい」ことの内でなくてはなりません(中学生のときに考えた理屈。テレビドラマの主人公が大声でこのセリフを叫んでいて、それがたまらなく嫌だった)。 逆に、「生きていることは無意味だ」というなら、同じ理屈で「死の選択も無意味」になりますから、いわゆる「存在論的」自殺は妄想にすぎ

  • 恐山あれこれ日記: 「即」にご用心

    「即」にご用心 仏教用語で時々持ち出される言葉に「煩悩即菩提」「生死即涅槃」というのがあります。仏教に多少興味のある人で、はじめてこの語を見たり聞いたりすれば、我々の心の迷いや欲望と仏の悟りがイコールだとか、人間の生き死にの現実が、そのまま仏教の究極の境地とされる涅槃と同じだとする理屈は、何のことだかわからないでしょう。 これらは普通、次のような解説をされます。大乗仏教の「空」の教えによれば、すべての存在にはそのものとしての実体はない(無我)のだから、それは煩悩も菩提も同じくことで、共に空で無我という意味で等しい。つまり、両方とも「空の現れ」として同じである、というわけです。 もう一つの理屈には、煩悩が有ればこそ、悟りも有るし、悟りがあるから煩悩も煩悩として自覚できる。お互い不即不離の関係だ、というようなパターンのものもあります。 この二つのアイデアは、根的なところで「空」の考え方を誤解

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