究極の言語というものが、もしあるとするのならば、それはどんなものになるだろうか。それは「ことばでは言い表せない感動」とやらも、容赦なく言語化してしまうものになるだろう。人間が感じうるありとあらゆる感覚/情動、そのすべてのパターンを正確に言語のかたちに換言してしまうのだ。人間はほとんどの情報を体感するが、言語を通した情報だけは「体感を抜きにした認識」ができる。すばらしい風景の描写を読み、そのイメージに酔いしれることもできる一方で、その描写が言わんとしていることをただそのまま理解するという乾いた認識もできる。究極の言語を手にした人は、ありとあらゆる経験を正確に認識してしまうのだろう。しかしその正確性ゆえに誤解や誤読が一切できなくなってしまうのだから、今までなあなあでやってきたところができなくなってしまい困るかもしれない。 表題作はいつものイーガンです。安心の面白さ。似たような話では長谷敏司「あ