まえに宇野常寛が書いた前田塁『紙の本が亡びるとき?』の書評(群像2010年5月号)を読み、そこに、「『翻訳され得る文体/され得ない文体』の峻別こそが日本文学の課題であると示唆する」とあるのを見て、へえー、と思った。でも、これまで読まずにいた。ただ気になってはいたのだ。今回たまたま機会に恵まれ、ようやく『紙の本が亡びるとき?』を読むことができた(←近所の図書館に置いてあったということです)。 文体は翻訳できない。文章のうち翻訳できないもののことを文体という。そう考えていた。だから「翻訳され得る文体」という言葉を見た時、頭の中で勝手に「わかりやすい文章」「くせのない文章」(つまり翻訳者が意味を取り損ねることの少ない文章)というふうに読み替えていた。でも問題のエッセー「二〇〇八年のビーン・ボール」を読んだら、そういうことではなかった。「翻訳を越えて伝わる文体」と書いてある。つまりほんとうに、正面