・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「神のいとし子」 天地万物の創造に先立って、神は智を生み出した。 神は智によって、隠れていた真理を引き摺りだし 真理に基づいて、天と地と、その間にあるもの一切を創造した。 そして神は、それらを美で飾り立てた。 しかし、智と美を豊かに恵まれた人間たちは、思い上がり 自分たちを神にも等しいものとして互いに讃え、自ら祀り 神が造ったものを手当たり次第に壊して、世の秩序を乱した。 だから神は、世界からほんの僅かだけ残して、智と美を取り上げた。 神が取り上げたから、人間たちは智と美に飢え 地上ではそれを巡って激しい争いが起こった。 智を手にした者はさらに智を得、美を手にした者はさらに美をかき集めた。 そしてそれを最も多く手にした者は、持たないものを卑しめ、虐げた。 人の智などは取るに足らないものなのに 恰も倒れた燭台の炎が街を焼き尽くすよ
毎度一杯のお運び、厚く御礼申し上げます。 今日は仏教について、云々したいと思います。ただし、ここで述べる仏教は原始仏教=つまり釈迦の直接的な教えについてであり、現代主流の、仏壇の前で経文を唱える仏教ではありません。 釈迦の時代の仏教というのは、実に心と行いのための学問であって、「ダンマパーダ」、「スッタニパーダ」、「ウダーナヴァルガ」という書物には大変美しい比喩や表現が用いられており、ほとんど詩のように楽しむことができます。 もともと釈迦の時代のインドでは、既に高等なレベルの哲学が存在し、それは政治の方へ進むのではなく、精神の生理的構造と操作法について追究していくものでありました。 それが到達した段階というのは、現代の心理学や精神構造について考察する学問の上を行きます(ウパニシャッド)。しかしながら、それは比喩によって書かれているので、非常に分かりやすいものなのに、想像力の乏しい学者には読
毎度一杯のお運び、厚く御礼申し上げます。 今日は、先日哲学を愛好される方からコメントをいただいたのをきっかけとして、哲学に関する個人的な見解を述べたいと思います。 およそ、哲学というのは、はっきりいって何なのかわかりません。人によっては、人生の美学的な思想であったり、世界や人類、歴史、民族、国家、政治などに対する一面的な解釈であったり、またさらには単なる言葉遊びであったりして、何が哲学というものなのか定義されていないような気がします。 言葉の意味についてここで云々するつもりはありませんが、もともとギリシャではフィロソフィー(智求)と呼ばれていたものであり、そこにはあらゆる学問が含まれておりました。 しかし、それから色々な学問が独立していき、ついに哲学は中身が無くなってしまいました。……というのは嘘か本当かわかりませんが、でもここ2千年くらいの哲学などは、誰も必要としていないものであることは
毎度一杯のお運び、厚く御礼申し上げます。 今日は中国の古典「道経」です。 老子は孔子よりちょっと前の世代の人物であります。何かの書物には孔子は老子の教えを受けたとか、門前払いされたとか、そういう話もありますが、それはまあよいでしょう。 道教というのは実はあまりよく分からない学派であります。まずこの「道経」がよくわからない。ほとんど中世ヨーロッパの暗黒時代の書物に通ずるような言葉遊びというか言葉の意味がおかしいところが多々あります。 そして矛盾点が多数あります。しかし根本原理は、<道>というもので、それは自然の原理を指し、それに従い、或いはそれに反しないように人は生き、また政も行うべきだという理論です。 しかしながら、これは実に不可能な話であります。その自然の原理というのに人間の生存環境というものが含まれていればよかったのですが、ここではそうではありません。 人間というものは、自然の上に存在
毎度一杯のお運び、厚く御礼申し上げます。 今日は、私が愛してやまない哲学者、プラトンについて述べたいと思います。プラトンは二千年以上前のギリシャの哲学者で、ソクラテスの思想を表現した書物を書き表した人物です。 これまで聖人と呼ばれる人物が、自分で書物を書き表した例はありません。キリストは、マタイとかマルコとかルカによって、釈迦とか孔子とかの言論に至っては誰が著したのかもわからないような状態です。 プラトンは主に、キリスト、釈迦、孔子と並び称される四聖人、ソクラテスの言論を記しました。しかしそれは、伝聞という形式にも関わらずあまりにも克明過ぎて、今の世の人が読めば、実はソクラテスというのは、プラトンが生み出した作中の人物なのではないかと思ってしまうほどです。 対話篇と呼ばれるプラトンの書物は、ソクラテスと誰かの対話が描かれているものです。それは単に思想が高尚だとか言うのではありません。 それ
毎度一杯のお運び、厚く御礼申し上げます。 文学の話に次いで、今度は音楽の話と、だんだんとワインの話から遠ざかっているようでもありますが、ワインを味わうのも、文学や音楽を楽しむのも同じことだと私は考えています。 なぜなら私はいつもワインを飲むように音楽を聴き、文学を読み、また音楽を聴き、文学を読むようにワインを飲んでいるからです。すると、その一つ一つの作品の本質が見えてくるから不思議です。 それは人から生まれるものも、自然から生まれるものも、同じ原理で生まれるからでしょう。人もまた自然のうちの一つだからです。 さて、音楽の項、第一回目は、音楽の父と呼ばれ、ほとんど神がかっている作曲家バッハの、言わば練習曲のような曲集の冒頭の作品です。 バッハと言えば「トッカータとフーガ」とか「小フーガ」とか「G線上のアリア」とかが一般的には有名ですが、私が思うにこの作品が、バッハの最高傑作だと思います。 こ
毎度一杯のお運び、厚く御礼申し上げます。 今日は、一般的にはあまりメジャーではない作曲家ですが、音楽史上欠かすことのできない作曲家、シェーンベルクの代表作「浄められた夜」をご紹介します。 実のところ、シェーンベルクという作曲家の代表作は、専門的には「月に憑かれたピエロ」とか、「5つの管弦楽曲」とか、「予感」とかがあるのですが、私が思うに、それらの作品は和声法とかの普遍的原理から脱線した作品なので、<かつて聴かれず、今も聴かれず、また後も聴かれることはない>でしょう。 しかし、この「浄められた夜」は、彼が音楽史上の革命を起こす前の初期の作品で、伝統的な作法=和声法とか対位法とか管弦楽法にほぼ準拠して作られた作品である上に、彼の才能とキリスト教発祥以来、ヨーロッパの地で培われた精神の精髄を遺憾なく発揮してあまりある作品であると思います。 原曲は弦楽6重奏だったと思うのですが、後に弦楽オーケスト
毎度一杯のお運び、厚く御礼申し上げます。 今日は私が一番好きな歌の話です。といってもこの曲は今更私などがご紹介するまでもなく、多くの方がご存知だと思います。 またこの曲と歌い手エディット・ピアフについては、つい最近映画にもなり、主演女優がアカデミー賞を獲得するなど、大きな話題になりましたから、尚更でしょう。 私が思うにエディット・ピアフは、日本で言うところの、美空ひばりさんであり、この「愛の讃歌」は「川の流れのように」みたいなものだと思います。 実際、エディット・ピアフの歌や歌声を聴くと、私は美空ひばりさんが頭に浮かんでしまいます。 エディット・ピアフの生涯は、映画で知る限りでは、必ずしも幸福ではない、というか寧ろその反対だったようです。非常に貧しい時代と家庭に生まれ、生まれつきの病も負った上に、非常に激しい感情を持っていたので、その激情と運命に翻弄され、心も身体も満身創痍で歌に生き続けた
毎度一杯のお運び、厚く御礼申し上げます。 さて今日はワーグナーの、いやオペラの最高傑作と呼ばれる「トリスタンとイゾルデ」です。 作曲家のワーグナーという人は途方も無い完璧主義者で、すべてを自分で作らねば気がすまない人だったようです。それは作曲はもちろん、脚本から舞台美術、演出、衣装までに至ります。 現代は映画というものが総合的な芸術として存在しておりますが、実はすべて分業で、原作者や脚本家をはじめ、監督、美術、作曲家、演出家などがいて、それぞれその仕事を請け負っています。いや昔もオペラにおける作曲家の役割というのは、単に作曲を請け負っていたに過ぎませんでした。 しかしワーグナーはその全てを自分でやろうとした人でした。それだけ我が強いのだと言うこともできますが、同時にそれだけ才能があったということでしょう。そして彼はこの「トリスタンとイゾルデ」で自分の理想を実現しました。 物語の内容は、非常
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