タグ

ブックマーク / blog.tatsuru.com (4)

  • 大学統廃合について(ひさしぶりに) - 内田樹の研究室

    6月23日の朝日新聞の社説に「大学改革 減らせば良くなるのか」という論説が掲げられていた。 政府の国家戦略会議が行っている大学改革論議の中で、財界人や政治家たちから、「大学が増えすぎて学生の質が下がった。専門知識はおろか一般教養も外国語も身についていない。大学への予算配分にメリハリをつけ、競争によって質を上げよ。校数が減って、大学進学率が下がってもいい」という声が上がったことへの疑念を示したコメントである。 大学を市場原理に放り込み、集客力のない大学の淘汰に同意すると、統廃合が進み、「体力のない地方の小さな私大からつぶれ、地方の裕福ではない家庭の子は進学の機会を奪われる」と社説は予測する。 この予測には、私も同意する(朝日新聞の教育関連の社説と部分的にではあれ意見が合うというのは、私には珍しいことである)。 そもそも大学生の学力が低下しているのは、中等教育で基礎学力が担保されていないからで

  • 経済成長の終わりと贈与経済の始まりについて - 内田樹の研究室

    平松邦夫さんの新しい政治運動のためのシンポジウムがあった。 労働組合や既成政党が土台という「ふるい」タイプのムーブメントはもう賞味期限が切れていると思うけれど、それへのオルタナティブがみつからない。 「オルタナティブがみつからないで困ったよ」という全員の困惑がはっきり前面に出ていたという点で、私にはなんとなく新鮮であった。 平松さんの市長時代の最後のパーティは選挙応援のためのものだった。3000人くらい集まった集会で、たいへんな熱気だったけれど、労組、政党、業界団体が集票マシンになるという、「ふるいタイプ」の集まりだった。こういうやり方では変化の激しい時代には対応がむずかしいだろうという気がした。 そのときよりはるかに人数は減っていたけれど、昨日のシンポジウムでは明らかに「みんな戸惑っていた」。 これはよい徴候だろうと私は思った。 戸惑うときには、しっかり戸惑った方がいい。 今までのやり方

  • 地方紙の存在意義について - 内田樹の研究室

    10月29日朝日新聞の朝刊オピニオン欄に、アメリカの地方新聞の消滅とその影響についての記事が出ていた。 たいへん興味深い内容だった。 アメリカでは経営不振から地方紙がつぎつぎと消滅している。 新聞広告収入はこの5年で半減、休刊は212紙にのぼる。記者も労働条件を切り下げられ、解雇され、20年前は全米で6万人いた新聞記者が現在は4万人。 新聞記者が減ったこと、地方紙がなくなったことで何が起きたか。 地方紙をもたないエリアでは、自分の住んでいる街のできごとについての報道がなくなった。「小さな街の役所や議会、学校や地裁に記者が取材に行かなくなった」 「取材空白域」が発生したのである。 カリフォルニアの小さな街ベルでは、地元紙が1998年に休刊になり、地元のできごとを報道するメディアがなくなった。 すると、市の行政官は500万円だった年間給与を十数年かけて段階的に12倍の6400万円まで引き上げた

  • 教化的ということについて - 内田樹の研究室

    母親の家は朝日新聞である。ふだんは毎日新聞なので、その違いに驚く。 朝日新聞には強い「指南志向」がある。 メディアが国民に進むべき道筋を提示するのはその務であるから、異とするには当たらないが、三日ほど読んでいるうちに、だんだん腹が立って来た。 「無理でしょ、それは」というつぶやきがもれる。 今朝の新聞の一面は「できる子伸ばせ」という記事で、科学五輪のような「世界レベルへ選抜合宿」している「できる子」たちの様子が報告されていた。 いったいなぜこのような記事が一面トップに置かれるのか。 その理由については何も書かれていない。 国産のトップアスリートやトップアーティストやトップスカラーを大々的に顕彰することは国民全体の士気を鼓舞することになるという信憑がおそらく定着しているせいだろう。 けれども、ジャーナリスト諸君はその「チアーアップされる感じ」をご自身で実感されているのであろうか。 私はされ

  • 1