ギリギリ山古墳(持坂20号墳) 県道建設で発掘され角力取山古墳の西脇に移築。石室長7.0m、玄室長4.2m、幅2.4m、羨道長2.8m、幅1.1mほどの規模。 ギリギリ山古墳の動画 古墳の位置(総社市岡谷)
ギリギリ山古墳(持坂20号墳) 県道建設で発掘され角力取山古墳の西脇に移築。石室長7.0m、玄室長4.2m、幅2.4m、羨道長2.8m、幅1.1mほどの規模。 ギリギリ山古墳の動画 古墳の位置(総社市岡谷)
ギリギリ山古墳(持坂20号墳) 県道建設で発掘され角力取山古墳の西脇に移築。石室長7.0m、玄室長4.2m、幅2.4m、羨道長2.8m、幅1.1mほどの規模。 ギリギリ山古墳の動画 古墳の位置(総社市岡谷)
矢掛町宇角。前記時:三寶荒神古墳(仮)から県道35号線をさらに800mくらい北上。 美川郵便局の北東100mの棚田の中に1号墳は位置します 塚原1号墳...畦道に融け込んで判りづらい ↑クリック縦画像...手前にも石室は伸びています 開口部は玄室中央あたりの天井。 石室内部...空間は奥壁から天井2枚分で2.5mほど。 w=1.7m h=1.6m ↑クリック縦画像...奥壁は2段積み。 奥から~ 3枚目天井片側が落ち込んでます ↑クリック縦画像...withキレイに加工された天井。 さらに続く石室...ほとんど見えませんが(^ ^ゞ...あと3.5mほどあるようです(全長は6m) ↑クリック外部から...この辺りに羨道があるはずだが石垣で閉鎖されてる 塚原2号墳(?)...3号墳より東に約300m、民家の間だが庭先に犬が居て近寄れず。たぶんコレ ↑クリック別候補...50mほど東の丘にある
昔,昔,神の世界でのことです。イザナキノミコト(伊耶那岐命)とイザナミノミコト(伊耶那美命)は天の神たちから「海に漂う大地をしっかりと固めて形よくしなさい。」と命じられて下界に降りてきます。やがて,2柱の神は互いに結ばれ,淡路島を産み,四国を生み,続いて,隠岐島,筑紫島(九州),壱岐島,対馬,佐渡,本州島の8つの島を生みました。これらは大八島国(おおやしまのくに)といいます。その後6つの島を生むと,次に海の神を含めて10柱を生み,さらに,風の神や山の神などを生み続けます。しかし,火の神(ヒノカグツチ)を生んだ時,大やけどを負ってしまい,それがもとで命を落としてしまいました。。嘆き悲しんだイザナキノミコトはイザナミノミコトを出雲と伯耆(ほうき)の境にある比婆山(ひばやま)に葬りました。そして,イザナキノミコトは憎しみのあまり自分の子のヒノカグツチの首を剣で斬り落としてしまいました。。 なかな
下御領古墳群の草刈りに行ってきました。 きつね岩から古墳の丘を見下ろせる尾根道を進むと下御領古墳群1号墳と2号墳があります。昨年の草刈りの際には、やぶに阻まれて1号墳を見つけることができませんでした。その時は、このあたりの古墳を知りつくしているSさんが ... ―古墳群の草刈りにご協力いただける方を募集していますー まだまだ厳しい残暑が続いていますが、秋から冬にかけての古墳シーズンに向け、古墳群の草刈りを行っています。先日草刈りを終えた全長47mの前方後円墳「大東大仙山古墳」は、ぐるりと歩いて全体を見ることが ... 新刊発行 『探索!御領の古代ロマン③ 穴国の前方後円墳』 -28基の前方後円墳が語り始めた吉備穴国の姿とヤマトとの関係-2013年から福山市神辺町上御領・下御領地区にある御領山で、御領古墳群の分布調査を続けてきました。2017年以降は、探索の範囲を広 ... 炭焼き
高所にあるため1基だけPassしていた・・・・ 毎戸3号墳...2号の北上、南南西に向く尾根頂ラインに位置で墳丘は総流失 東も南も開いてる場所ですが、石室はほぼ西向き ↑クリック 縦画像...with 天井石は5~6枚(^^; 羨道方向~ 2号並みの大型石室なのですが・・・ ↑クリック 縦画像 開口部...通過は不能。羨道の天井石だけは持ち去ることができたもよう ↑クリック 天井隙間...こちらから入れます 玄室奥に d=3m(現石室全長は7m) w=1.9m h=1.7m(現状)の空間は残っており~側壁 ↑クリック 逆サイド...概ね2段~3段 巨大鏡石を据えた奥壁 奥から~ かなりスリリング(^ ^ゞ ↑クリック 縦画像...ここで止まってるがこれまたスゴイ! ↓ポイントは2号墳 ■Point_Link by GoogleMap 天井石は惨たん状態。大きすぎて運べなかったから割ったのか
時は未来、今から100年後の2114年に、古墳と歴史の街・大阪の堺市で、ハニワをかぶった女性のミイラが発掘される。 不思議なハニワ・ミイラ発掘のニュースは日本中を騒がせ、多くの考古学者や有識者がこのミイラの解明に乗り出すが、「誰が埋めたのか」「何故ハニワをかぶっているのか」という、湧き上がる謎は解けない。 時は、遡ること2014年6月の現代、ひとりの女性が堺の地に現れた。百舌鳥(もず)という変わった名前以外、いつからここに居たのか記憶が定かではない。 ただ、ここ堺という土地に懐かしさを感じ、吸い寄せられるままに辿り着いた。彼女の記憶を探る旅が始まる…。 自分は何者なのか、どこへゆけばいいのか、そんな疑問を抱えた彼女はまず、堺市役所に向かった。まずここで堺市のことを調べて、記憶を取り戻すのだ。 彼女の話を聞いてくれたのは、市役所の「シティプロモーション担当」のウラベ課長だ。この部署は堺の魅力
次に大谷古墳に行く。 大きな駐車場だなあ。 古墳にこんな大駐車場があるなんて初めてだ。 それに駐車場にはトイレ付、 模様も古代だ。 その駐車場から万葉集風の短歌の碑が建つ道を登る。 この道の突き当たりまでくると! すっ すごい! すごい古墳がある。 赤磐郡の熊山遺跡に似た石造りの遺跡だ。 説明看板も立派だ。 国の指定文化財ともなれば、いろいろ周辺整備もできるんだな。 この↑説明板に書かれていた事でちょっと気になったのが、「復元されたもの」。 五重に積みあげられた古墳は、じつは発掘調査を基に復元したものだそうだ。 古墳時代からそのまま残っていたものではない。 木棺や石棺が出た石室。 この横穴部分は古代からのものだろうな。五重の古墳にしては穴は小さい。 上から見る大谷一号古墳。 半分はロマンを感じ、 半分はダミー古墳にしおれる気になる。 考古学の先生方が認定した古墳だから、ほぼ古代時と同じよう
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