中世後半以降、自ら直接農耕にたずさわる人々は、自力で「しんがい」「ほまち」などとよばれる小規模な開発を進めていた。主として畑地が対象であり、水田も山間部の急傾斜地や残された湿地など条件の悪いところに限られていた。領主や、後に豪商が行う新田開発とは異なり、豊かな経済力と高度な技術を必要とした計画的なものではなく、ほとんど鍬だけで行えるような小面積の開発であった。 しかし、このような開発が累積されると、棚田や段畑のようなみごとな景観が出現する。「日本のピラミッド」(東畑精一『米』)と形容されるほどの壮観は、こうして小農の生存・自立のために開かれ、今日まで継続されてきた偉大な成果であり、いわば「生きているピラミッド」なのである。 「千枚田」ともよばれる棚田の多い長野県の姨捨山や能登の輪島などの地域には、千枚あるという田の枚数がどう数えても1枚足りず、蓑や笠を取りのけたらその下にあったという伝説が