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個人に関するanselのブックマーク (7)

  • インタビュー 村木厚子元局長 夫に送った「たいほ」の3字 (週刊朝日) - Yahoo!ニュース

    主文、被告人は無罪──。9月10日、郵便不正事件で罪に問われていた村木厚子元厚生労働省局長(54)に対し、当然のごとく大阪地裁の横田信之裁判長はそう言い渡した。検察の主張のほとんどを認めない、「完全な無罪判決」だった。突然の逮捕から、5カ月以上にわたる勾留生活、そして裁判での検察との闘いまで。村木氏は判決の直前、勾留中に書いた日記や被疑者ノートを手に誌のインタビューに思いのたけを語ってくれた。 3時間45分にも及ぶ判決文の朗読後、満面の笑顔で会見の場に現れた村木氏は、 「うれしいです。判決を聞いて、1回心臓が大きく鼓動しました」 と語った。しかし、昨年の6月に無実の罪で逮捕され、長い間の犯人扱いに拘置所暮らし、そして巨大権力である検察特捜部との厳しい闘いを強いられてきた。 保釈後からこれまで、友達事に出かけたり、娘たちと過ごしたり、久しぶりの育児休暇のような感じで過ごしました

  • 「法に逆らうな、売春婦」 - 地を這う難破船

    ――出典はクリント・イーストウッドの映画『チェンジリング』。映画館でこの台詞を聞いたとき、まことにイーストウッドだなと思った。脚を彼が書いていないことはもちろん知っている。 ⇒排外主義それ自体が暴力です、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。 つまり、そういうことなのだが。そして、そういうことであることがわからない人は、どれだけ説明してもわからないのかも知れないとは思う。以下、mojimojiさんに対する批判ではない。 イーストウッドの映画には、毎度のごとく、法の側、秩序の側に立つ者であることを利用して、他者を抑圧し、服従させて、そのことに快楽を覚える、自身の所持する権力を自身の所持する「男」としての力と混同するサディストが登場する。あるいは偏見を公然と詳らかにする、自らを法を遵守する市民と規定する者が登場する。その、カテゴリーの意図的な反転はイーストウッド監督作の面白さであり、それ

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  • 無徴と民族性 - 地を這う難破船

    ⇒「個人に依拠する」ということ - モジモジ君のブログ。みたいな。 一連の議論を拝見していて、mojimojiさんが言っておられることと、かつて福田恒存が言っていたことと、どう違うのだろうと考えていた。保守は近代主義で個人主義で、近代の問題としてあった民族「主義」に対して批判的だった。どう違うかというと、保守は存在論的に「個人」を規定しはしない。 たとえば実存主義においては、個人はそれを取り巻く関係性を「括弧に入れて」規定される。サルトルが括弧に入れたもの、あるいは切り捨てたものについて、たとえば福田恒存は批判した。実存がありうるとして、実存と関係性は切り離せない、と。「その人」を取り巻く関係性が、その実存を囲い込む。囲い込みを切り捨てるためにこそ、実存という概念をサルトルは掲げた。切り捨てるための概念であって、その切断には意義があった。 問題は、切断の理由と意味に気が付かないままその概念

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  • 人を生かす/活かすということ - 地を這う難破船

    ⇒サイダーハウス・ルール - 地を這う難破船 の続きとして。 ⇒http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080526/p2 ⇒http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080527/p1 私は、象が殺されようがパンダが死のうがイルカが屠られわれようが知ったことではない。むろん、それは私個人の感情というか無感情。「可哀相」はむろんあってよいし主張されてよい。感情に基づく距離規定の問題であるから。人間の都合で屠られわれるイルカを「可哀相」とは私は思わないが、そのように考える人があることを認めるし、そのこと自体を妥当なこととも思う。差別が関与することなければ。このとき、象やパンダやイルカを「関係ない人間」と人は敷衍して認識しうる。そして、その問題意識のもと、宮沢賢治の豊饒な作品世界は紡がれた。「当の幸い」を希求して。 「合目的」と言うとき、その目的

    人を生かす/活かすということ - 地を這う難破船
  • 野蛮人のテーブルマナー - 地を這う難破船

    タイトルはコピペです。 ⇒はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:バイキング式のレストランで給仕を待つ君たちへ そもそも。人間とは必ずしも生産性や建設的行為のために生きているわけではない、と私は考える。付け加えるなら、こうした価値観が社会的に前提されないことには、生きていくことを許されない人が、許されないと考えてしまう人が、幾らもある。経済や労働の問題を倫理ないし規範の問題とすることに対しては慎重であってほしい――それも任意の倫理的/規範的立場から。マネジメントを否定しているのではない。その逆。 fromdusktildawnさんが言うところの「下位2割の人」に対して「上位2割の人」が道義的な責任を有するか、んなわけない。「だからこそ」所得の再分配という理念と議論と制度がある。小飼弾氏に始まる一連の議論は「既得権」を問うものではなかった。弾さんは親族の私有財産を相続し

    野蛮人のテーブルマナー - 地を這う難破船
    ansel
    ansel 2008/03/17
    『人生観にまつわる正論は全体最適にして部分不適である』『自身にとっての真に守るべき掟の門をその価値と共に知ることが、個性化の要諦。任意の価値的裁断に個人として脅えないこと。』
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