ブックマーク / intojapanwaraku.com (3)

  • 江戸時代には「黒糖地獄」の歴史も。奄美大島の黒糖沼はあまりにも深かった! | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    鹿児島県の離島である奄美大島。 そんな奄美大島の空港に降りると、驚くことがある。 とにかく、空港の土産物屋が「黒糖」一色なのだ。そのままの黒糖はもちろん、黒糖チョコレート、黒糖ピーナツ、黒糖バナナ。はては黒糖焼酎から黒糖とよもぎを使った黒いお「ふちもち」まで。いやはや、これでもかというほどの「黒糖」推し。 奄美大島の人はそんなに黒糖が好きなのかとも思ったが。じつは、島には、黒糖にまつわる知られざる暗黒時代があった。俗にいう「黒糖地獄」である。 島の歴史を語る上で「黒糖」だけは外せない。 ということで、「知る旅―奄美大島」の次の取材先はコチラ。 昭和60(1985)年創業の「水間(みずま)黒糖製造工場」である。 水間黒糖製糖工場 奄美大島とは切っても切れない「黒糖」。そんな黒糖を昔ながらの手作業で製造し、今なお伝統を守り続けている「水間黒糖製造工場」を訪れた。 今回は、黒糖製造に携わる人た

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  • 「カフェー=エロ」の時代があった?!純喫茶の歴史を深堀りしたら「不純なカフェー」に辿り着いた | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    文化人のサロンが発祥だったはずなのに、どうして「不純」な店が増えてしまったのでしょうか? 日の喫茶店の歴史を紹介しつつ、その経緯を読み解いていきます。 日最初の喫茶店「可否茶館」は経営不振で4年で閉店 まずは、日に喫茶店が生まれた頃の話を。 通説として「日最初の喫茶店」とされているのは、1888(明治21)年に東京・上野に誕生した「可否茶館」です。(読み方は「カヒサカン」「カヒチャカン」「コーヒーサカン」など諸説あり) 「通説として」と書いたのは、可否茶館以前にもコーヒーを提供した店が存在したこと、また設備の内容から喫茶店と呼べるのか? と疑問を持つ研究者もいることからです。(※この記事の論点は「日最初の喫茶店はどこか」ではないので、これ以上は掘り下げず話を先に進めます) 可否茶館の跡地に立つ記念碑 創業者は、鄭永慶(ていえいけい)氏(日人)。海外生活が長かった鄭永慶氏は、「知

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  • 死刑よりも過酷だった!? 関ヶ原合戦西軍の副将も味わった島流しの地獄 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    「島流し」と聞いて、どんなイメージが浮かぶでしょうか? おそらく、謀反のような重罪を犯したものの、死刑は免れるかわりに小島に送られ、そこで生涯を全うする―こういった印象を持つ人が多いでしょう。 そこでの生活は、派手ではないものの、つつましやかに暮らすことは許され、牧歌的ともいえる日々であったと想像するかもしれませんね。 しかし、その実情は、多くの罪人にとって「死刑のほうがまだマシ」といえそうなほど過酷な世界であったのです。 この記事では、流刑者が多かった江戸時代を中心に、島流しの伝説を紹介したいと思います。 日初の流刑者は皇女だった 日の流刑の歴史は古く、正史では日書紀に出てきます。第19代天皇の允恭(いんぎょう)帝の治世というから、西暦では5世紀の話です。 允恭帝には9人の皇子・皇女がいましたが、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)が近親相

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