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ブックマーク / garegesale.hatenablog.com (10)

  • 「その名」を公共圏に記しつづけよ! 高祖岩三郎 - Garege Sale

    what we do is 'writing', and that's what's always been. Phase 2 I see that society is using what they can use (standard English) to define their own history. I use what I use to define mine.I build a letter Like a weapon. Rammellsee (1) 前書き──地下鉄という舞台 まさにこのニューヨークで発生し、決定的なモメンタムをつかみ世界各地に広がったが、当地では首都交通局( Metropolitan Transit Authority )との激しい闘争のすえ、地下鉄という主要な舞台を失い、そこから撤退せざるをえなかったこの歴史をなぞることには、どうしても一抹の悲しみが

  • 両義性の実存的絵画論──前期メルロ=ポンティにおける 「セザンヌ」 の意味──横山奈那 - Garege Sale

    序 現象学はバルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品と同じように、不断の辛苦である──同じ種類の注意と驚異とをもって、同じような意識の厳密さをもって、世界や歴史の意味をその生まれいずる状態において捉えようとする同じ意志によって。こうした関係のもとで、現象学は現代思想の努力と合流するのである。( PP .xvi ) メルロ=ポンティ( Maunce Merleau-Pony, 1908-1961 )は、前期の主著『知覚の現象学』の現象学と芸術作品との類縁性について言及するこの箇所で、バルザック、プルースト、ヴァレリーといった小説家や詩人と共に、ただ1人画家であるセザンヌ ( Paul Cézanne, 1839-1906 )の名前を挙げている。彼は、この著作が出版された同じ年に「セザンヌの疑惑」と題された論文も発表しているが、この論文は、彼が特定の画家につ

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    aparigraha6 2012/01/11
     セザンヌは彼のやり方で、人間の習慣を「宙吊り」にすることによって、科学的構成に基づく先入見にまだ侵されていない「生きた世界」の風景を描写しようとした/デッサンと色彩とはもはや分けることができない
  • 知覚における絵画的意味 高橋 綾 - Garege Sale

    はじめに メルロ=ポンティはその知覚論のなかで、くりかえし知覚のなりたちを絵画になぞらえて語っている。とくにセザンヌについては、『知覚の現象学』から、『間接的言語』、『セザンヌの疑惑』といった著作を経て、『眼と精神』 にいたるまで、なんども繰り返し言及されている。 メルロ=ポンティは、世界はわれわれの身体を起点として現れると考えた。メルロ=ボンティにとって身体とは、「世界内存在の媒体」( PP97 )であり、その身体を持って見るということは、網膜像を受容することや感覚刺激から脳が像を構成することなどではなく、まず主体が「環境内へ定着」( PP235 )し、「世界へ内属」(同)することとして考えられなければならないのである。論文では、主に『知覚の現象学』に見いだされる、奥行きの問題、 視野の組織化による色の現出、そしてそれらをとりまとめる「協働的総体」としての身体の働きという3つの観点から

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    aparigraha6 2011/12/25
     セザンヌのデフォルメには異なった視点から見られた事物の見えが共存 / ひとつのパースペクティヴがべつのパースペクティヴに含み込まれているという時間と運動を含みこんだ知覚の「厚み」を一挙にそこに表現
  • ウィルダネスとホームレスネス ――荒野・大海原、そして、家のないこと――  河野哲也 - Garege Sale

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    aparigraha6 2011/11/28
     /ウィルダネスは、廃墟のように剥き出しの諸存在が、美しく、神々しく、それ自身の価値を主張している場所 /ディープ・エコロジーは、人間の認識とは独立に自然そのものに価値が宿っているとする思想/
  • サイバーシティのロボット Robots in the Cybercity 毛利嘉孝 - Garege Sale

    1. 『ブレードランナー』という問題 リドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』は、公開から20年以上たっているにもかかわらず、今でも批評の対象に挙げられるカルト的な作品である。この作品は、今日のロボットと都市、そして人間の関係を考えるうえでもやはり示唆に富んでいる映画であるので、ここでも議論の出発点として取りあげてみよう。 『ブレードランナー』の舞台は、2019年のロサンゼルス。酸性雨が降り続け、退廃的な繁栄と廃墟が共存する都市は、多国籍企業によって支配されている。多くのSF映画が、これまで宇宙をテーマにしていたのに対して、この『ブレードランナー』は徹底的に都市をその舞台としている。このために、この映画は、その後の都市計画、デザイン、映像表現の想像力の源泉として機能してきた。 この映画の特異性は、3つの雑種性(ハイフリディティ)から構成されている。1つは時間の雑種性である。この時間

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    aparigraha6 2011/09/17
    ~ 近代都市は、様々な囲い込みの空間(精神病院、刑務所、工場、軍隊、学校、家族等)から構成されていた。今日のサイバー都市では、権力は完全に断片化、分散化し、もはやどこにいるのかは重要ではない ~
  • 「世界は売り物ではない!」 フランス農民総連合の文化闘争 コリン・コバヤシ - Garege Sale

    「いくつかの決定的なことが、われわれの歴史を今しがた変えたばかりだ。農民たちは、決してヴェルサイユ正規軍兵士*1のようにはなるまい。彼らは社会を変えようとしている者たちに反対するようなことは決してしないだろう」。 ベルナール・ランベール*2 1973年8月25−26日、ラルザック 1998年1月8日、ピレネー山脈に近い町ネラックにある多国籍アグリ企業ノヴァルティスの穀類倉庫にあった遺伝子転換トウモロコシが、3人の農民総連合(コンフェデラシオン・ペイザンヌ)の組合活動家の手によって、焼却された。彼らは、ルネ・リーゼル、フランシス・ルー、ジョゼ・ボヴェの3人だった。 翌年、1999年8月12日、中央山塊地方の真中、ミヨー市で建設中のマグドナルドが、午前11時に解体された。その前で集会したラルザック高地の羊飼いの農民だちとミヨー市の住民たち合計約300人によってである。扉や障壁が取り壊され、屋根

    「世界は売り物ではない!」 フランス農民総連合の文化闘争 コリン・コバヤシ - Garege Sale
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    aparigraha6 2011/09/10
     遺伝子組み換え農産物(身体の商品化)を拒絶し、食の多様性を守ろうとするフランス農民。彼らが標的にしたのは、商品の規格化、味の画一化を通じた文化支配の象徴であるマクドだった
  • シチュアシオニストの活動とその意義 三浦丈典 - Garege Sale

    序論 論文は1957年から72年にかけて、ヨーロッパを中心に精力的に活動した前衛グループ、「シチュアシオニスト・インターナショナル(以下SI)についての研究である。SIはギー・ドゥボール、アスガー・ヨルンらを中心としたヨーロッパ広域に渡るアヴァンギャルド・グループで、シュルレアリストの末裔として、1950年代か70年代初頭にかけて、美術や建築、政治などで革新的な活動を行い、それらは戦後の前衛運動の中核に位置しているばかりか、その後の建築、都市計画に少なからぬ影響を与え、最終的にはポストモダンと呼ばれる都市像を生み出す一因となった。 論は大きく分けて3つの章から構成され、付録資料として”The Situationist City”( Simon Sadler, The MIT Press,1998 )の日語訳を併記した。第1章では彼らSIの活勣の系譜とその意義について、建築、都市計画と

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    aparigraha6 2011/08/10
     「漂流」とは「目的もなく都市を彷徨し、敢えて遠回りをしたり、時には道路を無視してどこかに侵入したりしながら、地図には決して表現されないような都市のさまざまな心理学的効果を発見」する技術
  • 知識と権力 ──言説としてのオリエンタリズム── 黒瀬 勉 - Garege Sale

    1 オリエンタリズムを問題にする際、サイードはそれをオリエントに関する学問・研究、つまり、オリエントを研究する学者の仕事に限定しないで、広く、西洋とオリエントの区別と差異に基づく思考様式としてとらえる。したがって、『オリエンタリズム』の中で言及されている者は、サシやルナンのような専門のオリエンタリストにとどまらずに,アイスキュロス、ダンテ、マルクス、フローベール、カミュなどと実に多彩である。古代ギリシアのアイスキュロス以来、オリエントは西洋に対する他者のイメージ、それも最も奥深いところから繰り返し現れる他者のイメージを提供してきたし、それによって、西洋はオリエントと対照的なものとして自らを規定してきた。特に、近代になると、啓蒙主義以後に、言語学、人類学、生物学などの諸科学が形成したオリエントに関する言説の網の目によって、西洋とオリエントの差異が強化・拡大されていく一方、西洋はオリエントを政

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    aparigraha6 2011/08/05
    / 我々が外国人を避けたり、外国人と戦ったりする時、我々が相手にしているのは我々の無意識である / 「彼ら」とは「我々」の隠された陰画的(ネガティヴ)な自我なのである / 「他者、それは私自身の無意識」
  • 日常的抵抗論 第4章 オリエンタリズム批判と近代のアイデンティティ - Garege Sale

    epub PDFで読めます 1.オリエンタリズム批判と啓蒙主義的主体 序章でも紹介したが、現代の文化人類学の質主義批判に大きな影響を与えたのが、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』による、近代西欧のオリエンタリズム批判だった。「オリエンタリズム」とは、広い意味では「『東洋』と……『西洋』とされるもののあいだに設けられた存在論的・認識論的区別にもとづく思考様式」[サイード 1993上:20]と定義されている。この意味でのオリエンタリズムは、古代ギリシア以来のものだろう。けれども、サイードが『オリエンタリズム』で主に批判しているオリエンタリズムとは、18世紀末に始まる「近代オリエンタリズム」であり、西欧近代が創り出した「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」[サイード 1993: 上21]である。したがって、オリエンタリズムを古代ギリシア以来の西洋/東洋の存在論的・認識論

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    aparigraha6 2011/06/26
     オリエンタリズムは支配のテクノロジー。西欧近代のブルジョアジーが、自己の内の否定的な要素(怠惰、感情的、受動性、暴力等)を、植民地のネイティブや下層階級、女性などに押しつけて「他者化」
  • 都市の歩道空間の聖化にみる 抗争場としてのストリート 南インドチェンナイ市における歩道寺院を事例に  関根 康正 - Garege Sale

    都市の歩道空間をめぐって,異なる利害を有する 2 つのアクターが抗争している。一方は,市行政権力であり,都市計画の実践という観点から歩道を歩行者のために維持管理する。他方に,追い立ての恐れの中で歩道を不法占拠し生活の場にするホームレス貧困者たちがいる。前者は公空間である歩道を占拠させまいと力を行使する立場にあるし,後者はそれに抗して歩道上で生活基盤の確保に勤しむという反対の立場に生きる。稿では,様々な歩道空間での活動なかでもきわめて明確に目を惹く実践である「歩道寺院」活動を焦点化する。この動きは50年を超える歴史があることが分かっているが,とりわけ1990年代以降急増しており,チェンナイ市の全体に拡がった一般的現象になっている。これらの歩道寺院は大方が社会的に下層の人々によって開始され建設が進められている。歩道寺院は明らかに,神の名においてその空間を聖化し,その力によって行政権力に抵抗

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    aparigraha6 2011/03/10
     / 歩道寺院は明らかに、神の名においてその空間を聖化し、その力によって行政権力に抵抗する砦になっている。その意味で、下から歩道寺院建設も不利な境遇を生き抜く戦術としての「弱者の武器」/
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