蓮實重彥さんの短期集中連載時評「些事にこだわり」第3回を「ちくま」9月号より転載します。この夏は一生ぶんくらいの「頑張ろう」「頑張った」というフレーズを聞いた気がします。しかしそもそも「頑張る」という日本語はなんなのか。結果の是非を視野から遠ざけ、主体を一様に無化する紋切型のおそろしさとは。 さる原稿の執筆にやや行きづまったので、パソコンの置かれた仕事机を離れ、サロンのソファに深々と身をうずめ、正式には禁煙したことになっているのに何のためらいもなく煙草に火をつけ、見るともなしにテレビをつけてしまう。すると、画面には、めっきりと髪の白さがきわだつピーター・フォークが、例のよれよれのベージュのコートをまとって慇懃無礼な質問を若い男に向けて呟いているので、ああ、『刑事コロンボ』の一挿話の再放映だなとすぐさま合点がゆく。見るからに怪しげなその若い男は、自分で設計したクラブのオープニングが迫っている