カメキチの目 禅語 隋処に主と作(な)れば 立処皆真なり (ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり) 「隋処に主となる」とは、どこでも主体的ということ。 「主体的」とは、「自分が…自分が…」と目だとうすることではありません。 主体的に生きれば、「立処皆真」なり。つまり、あなたが歩もうとする道、歩んだ道は、みんな「真実」なのだよ、ということか。 言い換えれば、あらゆる場・時にあっても自分を忘れず見失わず、ということは自分の頭でちゃんと考え、自分の人生の主人公は「自分自身」であろうとすれば、あろうと努力する限り、そんな自分の姿というのは「真実」だということ。 出世を人生の目標にするのはいいとして、そのために上司の顔色をうかがう、長いものに巻かれる、「ソンタク」する処世術も、それを自分で選んでいるので「主体的」なんだろうか?「立処皆真」だろうか? 考えていたらわからなくなってきた… ところ
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