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2020年5月7日のブックマーク (5件)

  • 龍馬暗殺の実行犯と首謀者の検証(1) - ひからびん通信

    龍馬は,慶応3年11月15日(1867年12月10日),京都河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅の母屋2階に潜伏していたところ,何者かにより切りつけられ,中岡慎太郎とともに斬殺された。龍馬は,新撰組の追跡を欺くため,11月3日,それまで宿泊していた寺田屋から近江屋に居を移動させているが,その後11月13日,御陵衛士(高台寺党)の伊東甲子太郎の訪問を受け,伊東から,さらに近江屋も危険だから三条の土佐藩邸に移るように勧められた。しかし龍馬はそのまま近江屋に留まり,殺害される11月15日を迎えることになる。なお,御陵衛士とは,それまで新撰組に所属していた伊東らが,新撰組との路線対立(攘夷という点では志を共にしたが,新撰組は佐幕,伊東らは勤皇・討幕を志向)から,伊東ら十数名が新撰組を離脱し,薩摩藩の動向探索と孝明天皇の御陵警備の名目で結成された政治結社であるが,伊藤は龍馬暗殺のわずか3日後

    龍馬暗殺の実行犯と首謀者の検証(1) - ひからびん通信
  • 近江屋事件 - Wikipedia

    近江屋事件(おうみやじけん)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂龍馬と中岡慎太郎、龍馬の従僕であった山田藤吉の3人が京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋井口新助邸において殺害された事件。実行犯については諸説あるが、江戸幕府の組織である京都見廻組によるものという説が有力である[1]。 背景[編集] 坂龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋が江戸幕府に目をつけられ急襲(寺田屋事件)されたため、三条河原町近くの材木商酢屋(すや)を京都での拠点にしていたが、慶応3年10月ごろに近江屋へ移った。近江屋は醤油商として蛤御門の変以降土佐藩の御用を務めており、その屋敷は土佐藩志士の基地的な存在であった[2]。 「坂龍馬が暗殺される」という風聞は当時から広く流れており、御陵衛士の伊東甲子太郎と藤堂平助が近江屋を訪れて[注 1]国事を2時間ほど語り、伊東

    近江屋事件 - Wikipedia
  • 第1回「坂本龍馬暗殺の犯人はこの男だ!」【歴史作家・山村竜也の「 風雲!幕末維新伝 」】

  • 近江屋暗殺 | 坂本龍馬人物伝

    近江屋事件は、幕末の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂龍馬と中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺された事件のこと。京都見廻組の仕業であるとされる。 経緯 龍馬はそれまで宿舎としていた寺田屋が幕府に目をつけられたので、11月3日に近江屋に移った。11月13日、伊東甲子太郎が尋ねてきて、新選組に狙われているので三条の土佐藩邸に移ったらどうかと勧めたが、龍馬は近江屋に留まった。 11月15日、夕刻に中岡が近江屋を尋ね、三条制札事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士の山田藤吉は客を龍馬に会わせようとするが後から斬られた(1日後に死亡)。このとき「ぎゃあ!!」と大声を上げた山田に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に自分たちの居場所を教えてしまう。刺客は音もなく階段を駆け上がり、

  • 遠のく原油「マイナス」の影 米州総局 後藤達也 - 日本経済新聞

    原油先物価格が再びマイナスに陥る可能性が薄れてきた。4月20日の暴落の一因となった期近物に特化したファンドの運用が大きく修正されたためだ。先物の期日直前に投げ売りの連鎖が起こるリスクは低くなった。世界で経済再開の動きが出始め、原油貯蔵施設が満杯になるリスクも和らぎ始めた。6日のニューヨーク市場で、WTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)の期近物6月物は1バレル23.99ドルだった。5

    遠のく原油「マイナス」の影 米州総局 後藤達也 - 日本経済新聞
    auz
    auz 2020/05/07