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昭和とデイリーポータルZに関するawatakeのブックマーク (21)

  • 根室で見つけた”昭和を通り越して大正”な旅館

    北海道をバイク(といっても原付)で旅行していた時の事である。根室に到着した私は、一人途方に暮れていた。 私はできるだけお金を掛けない旅行を心がけており、この旅行では主にキャンプ場を宿泊に利用していた。しかし根室にはどうもキャンプ場が無いらしい。かつてはあったようだが(それをあてにしていたのだが)、随分前に閉鎖されてしまったようだ。 しょうがないので宿を取る事にした。駅前の案内所に掲示されている宿泊施設一覧表の中から最も安い素泊まり3500円の宿に電話し、予約を入れる。そうして訪れた旅館が、なんとも味のある建物で驚いた。 1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼を

  • 古い「暮しの手帖」のくらべ記事を調べてみた

    40年前から最近にかけての「暮しの手帖」を大量にもらった。 1948年創刊、自社以外の広告を入れず主張のあるスタイルで有名なあの家庭雑誌だ。 創刊から近年まで愛読していた祖母の家が建て替えられることになり、大幅なモノの処分に迫られた祖母が所有の「暮らしの手帖」の全てを私に託してくれたのだ。 68年の号を最古に約150冊。このタイミングで、改めてこの雑誌のとんでもなさに迫りたい。

  • 生きろ! 古い記録メディアたちよ

    最初に作ったホームページはMOにデータを保存した。一太郎で作った卒論は3.5インチのフロッピーに入れて持ち歩いていたように思う。ZIPとかJAZを使っている人はいけてるみたいな雰囲気があった。 なつかしい記録メディア、1979年うまれの私の感覚だとだいたいこんなあんばいだろうか。 3.5インチのフロッピーもMOもZIPもJAZも、一般的には使われることが少なくなったメディアだ。その前の時代にも、後の時代にも記録メディアというのはかなりの種類がある。一概には言い切れないが脈々とした淘汰の歴史の上に成り立っているイメージか。 しかし、そんな淘汰されたメディアを、メーカーが廃盤にした後もなお流通させ続けている会社がある。

    生きろ! 古い記録メディアたちよ
  • ある戦後映像の謎を解く

    昨年(2014年)の夏、友人のある"推理"を元に、羽田空港近くを探索した。これがものすごく楽しかったので、その話をしたい。 "推理"の元はある動画。ここに映っているのはどこなのか。いつ撮られたものなのか。 そしてぼくは「人の話聞かなきゃいけないな!」と思ったのでした。

    ある戦後映像の謎を解く
  • 1970年の東京の風景を探しに行く

    1984年うまれ、石川県金沢市出身。邪道と言われることの多い人生です。東京とエスカレーターと高架橋脚を愛しています。 前の記事:線路を歩ける橋、赤川鉄橋をくぐる、渡る > 個人サイト 東京エスカレーター 高架橋脚ファンクラブ

  • 群馬は、なつかし自販機の聖地だった!

    【あらすじ】うどん、ハンバーガー、トーストなどが買える「なつかし自販機」を求めて、埼玉のオートパーラーめぐりにやってきた一行(筆者・大塚+友人3 名)。あまりに味わい深い店との出会いに衝撃を受け、「もっとオートパーラーをめぐりたい!」と欲望がわき、そのまま群馬へ乗り込んだのであった。(埼玉編はこちら)。

  • 黎明期のパソコン誌を見ながら

    黎明期のパソコン雑誌が実家から出てきた。 「懐かし~」 と思う当時を知る人と、当時を知らない 「ちょ、マジかよ」 と思う人がいるんじゃないかと思う パソコン黎明期の話です。

  • あの「ハトヤ」に行ってみた

    パチンコ屋に入ったことがない。 タバコも吸ったことがないし、麻雀をやったこともない。 なにが言いたいのかというと、人生「知ってるけどやったことがない」ことばかりだ、ということだ。(「結婚したことがない」で終わらないように気をつけたい) そこで、その「知ってるけどやったことがない」のひとつを実際体験してみようではないか、というのが今回の内容です。

  • 奥多摩の山で昭和のゴミを発掘してきた

    2005年から山に登り始めて7年になる。そんなにガツガツ登ってる訳じゃないが、山に登っていて気になることが一つあった。異様に古いゴミが結構な量落ちているのだ。 今時のステイオンタブではなく、懐かしき昭和の、缶から取れるプルタブのジュース缶や見たことのない缶詰など。今回は、そんな昭和のゴミを集めて観察してみたいと思います。 昭和の話が長々続くので、別のウィンドウで「ジューシィ・フルーツ On Radio Show 1981 [演奏曲完全収録版]を再生して聴きながら読んでみてください。 あばよ涙、よろしく勇気、こんにちは松です。 1976年千葉県鴨川市(内浦)生まれ。システムエンジニアなどやってましたが、2010年にライター兼アプリ作家として自由業化。iPhoneアプリDIY GPS、速攻乗換案内、立体録音部、Here.info、雨かしら?などを開発しました。著書は「チェーン店B級グルメ 

  • 焼け野原にならなかった東京めぐり

    東京の町を歩いていて、ここの町並みちょっと雰囲気あるなーと感じることがある。 後で調べると戦災を逃れた町だったことが分かったりする。そう感じるほどに、逆にほとんどの場所が焼けてしまったということだろう。 たまに聞く、焼け野原にならなかった町。それらはどこにあって、今どういう雰囲気なのか?いくつかめぐってみました。

  • 昔の学習雑誌がなんだか不気味なのだ

    以前、母が子供の頃に読んでいた学習誌を紹介した(「昔の雑誌の『未来予想図』を鑑賞する」)。そのときは未来予想絵図に焦点をあてていたのでこの雑誌のことはサラッと流したが、実は自分には大変思い入れのある雑誌なのである。だからいつかまた取り上げてみたかった。 その理由の一つが、「なんだかこの雑誌、怖い」ということだ。 ひどくぼんやりしたテーマで、のっけから不安でしょうがないが、今回はこの怖さをぼんやりとでいいので共有していただきたい。

  • 姫路モノレールで45年前にトリップする

    姫路市営モノレールは、姫路駅、大将軍駅、手柄山駅のたった2区間を走っていたモノレールである。1966年に手柄山公園で開催された「姫路大博覧会」のための輸送機関として開業、wikipediaによれば当初は鳥取まで(!)の壮大な延伸計画もあったようだが、博覧会後に利用者が激減、モノレール事業を推進してきた市長の交代や、車両を作っていた日ロッキード・モノレール社の解散などもあり1979年には多大な赤字を残して正式廃業してしまった。そんなわけで、現在これらの橋脚のすべてがいつ撤去されてもおかしくない状態にある。 という話をきいて、私が想像していたのは、ただひっそりと物陰に佇むコンクリート柱の姿だった。ところが現地へきてみれば、この橋脚、ただの廃線橋脚じゃない。建物からはえてみたり突っ込んだり、なんだかやりたい放題だ。

  • 駄菓子屋だらけの町

    ぼくの育ったところは田舎すぎて駄菓子屋が無かった。 小学校の登下校の道のりを思い出してみても、思いつくのは田んぼ、製材所、畑、脱穀所、牛舎、竹やぶ……駄菓子屋がありそうな場所はまったくない。 駄菓子屋はもっと人の集まる繁華なところにあるものだと思っていた。そう、ぼくにとって、駄菓子屋は都会の象徴だったのだ。 その頃は、学校帰りに駄菓子屋で酢だこさん太郎を買いいして塾に行く……というようなアーバンなライフスタイルにものすごく憧れたものだった。 ぼくにとって都会の象徴である駄菓子屋。そんな駄菓子屋が、そこら中にある場所が名古屋にあるらしい。

  • 30年前のグリコのおまけを眺める :: デイリーポータルZ

    子供にとってお菓子のおまけの引力はいつの時代も変わらないものだと思う。 子供の頃に遊んでいた70~80年代のグリコのおまけを並べて、眺めてみた。 (ほそいあや) おもちゃのかんづめ(自作) 子供のころからずっと捨てられなかった、こまごまとしたおもちゃ。ほとんどがお菓子のおまけです。 一方、普通におもちゃ屋で買った大きいおもちゃはほとんど残っていない。成長するにつれ、処分する時が来ても未練はなかった。 でもおまけだけはこの先も捨てることはないと思う。自分がこの小さいおもちゃに執着する理由って何なんだろう。

  • 「歩道橋」を鑑賞する :: デイリーポータルZ

    ぼくが子供の頃「交通戦争」なる言葉がまだあった。高度成長期に重大な社会問題であった交通事故の状況を指して昭和30年代後半から言われるようになった言葉だ。 交通事故に対して「戦争」などとセンセーショナルな用語を当てたものだなあと思ったが、もののを調べると、昭和20年代後半から40年代の後半まで一貫して交通事故件数は増え続け、なかでも特に東京都では交通事故死亡者数における子供の比率が非常に高かったそうだ。非常に深刻な事態であったことがうかがえる。ちなみにぼくが生まれた昭和47年時点では、東京都における交通事故死亡者に占める5才以下の幼児の割合は実に70%を越えている。 さらに東京オリンピック前になると、都内のいたるところで建設工事が始まり、たくさんのトラックが道路を行き交うようになった。そういえば、ぼくが小学生の頃の交通事故のイメージは「ダンプ」だった。今「ダンプ」って言葉使わないよな、あん

  • ちょっと見てきて:セキスイハイムM-1が見たい :: デイリーポータルZ

    セキスイハイムM-1をご存知ですか? 今もセキスイハイムは阿部寛のCMですっかりおなじみですが、1970年に発売された最初のバージョンは今とは全く違う外観の、四角いコンテナを組み合わせたような、屋根のない超未来的かつなモダンデザイン住宅でした。 当時子供だった私、他の住宅メーカーの家は区別がつかなくてもセキスイハイムM-1だけは識別できるほど強烈なデザインでした。 しかしどうやらプレハブのような質感が安っぽいと思われるのか、ハイムは今では普通の木造と変わらないデザインとなっております。 そんなM-1も発売から40年近く経ち、解体された物件も多いようで絶滅の危機が迫っております。 70年代モダンデザインの生き証人、セキスイハイムM-1の生存・現状を確認したいので見かけたら報告してください。 (個人住宅なので詳しい住所・地図は必要ありません。市町村名程度がわかれば結構です) セキスイハイムM-

  • コカコーラの看板を探して :: デイリーポータルZ

    人が「なつかしい」と思う風景ってなんだろう。 夕日、田んぼ、作りかけの東京タワー、いろんな原風景があるのだろうけど、昭和と平成の狭間で生まれ育った私が提案する「なつかしい」、それは、コカコーラの看板がある風景である。 (田村 美葉)

  • 「デビル」を鑑賞する :: デイリーポータルZ

    こういうちょっと古いビルのことを「デビル」と呼んでいるわけです。デッドストックな感じのビル、で、デビル。良い名前でしょ。 来「デッドストック」とは「不良在庫」を意味するが、ここではどちらかというと「ビンテージもの」の意味合いでご理解いただきたい。ならば「ビンテージビル」とかにすればいいじゃん、という意見もあろうがそんな正論は聞きたくない。ようするに語呂の問題だ。 ぼくが「デビル」と呼んで愛でたいのは。おそらく1960年代後半から1970年代中盤ぐらいに建てられたもの。だと思う。 調べてないから分からないけど。おおむね階高は3~7階建てぐらいで、店舗と一体になった住宅やオフィスなどのものが多い。ような気がする。調べてないか ら分からないけど。もちろん有名建築家の手によるものなどではなく、アノニマスな物件だ。いや、もしかしたら中には有名建築家のものもあるかも。調べてな いから分からない。 定

  • 「デ・ビル」に夢中 :: デイリーポータルZ

    この一年、「デ・ビル」に夢中だ。 なんど見ても素敵なデ・ビル。いろいろな街で見かけるたびに写真を撮っている。今回はこのすてきなデ・ビルをご覧いただこう。ふたたび。 (大山 顕) ふたたびデ・ビル 1年前に「デ・ビルを鑑賞する」という記事を書いた。デ・ビルとは、ちょっと古いビルのことだ。「ちょっと古い」って定義が曖昧だが、見れば分かると思う。ああ、そういうビルね、って。 こういう、なんてことないビル。でもかわいいビル。ちょっと古い。この「ちょっと」ってところがポイントだ。古い有名建築はしばしば雑誌などで取り上げられ、ものによっては保存すべし、などと言われるが、こういう「ちょっと古い」ビルは人知れず建て替えられる。 まあ、老朽化や耐震や使い勝手などの面で建て替えられるのは当然で、デ・ビルを保存すべしなどとは思わないが、現在のビルにはないスタイルで、とにかくかわいいので写真に収めて愛でたい、そし

  • 萌え萌え昔ガラスと穴あきブロック :: デイリーポータルZ

    僕が生まれ育った昭和のガラスは、分厚くて妙な模様が浮き出ていた。花や葉っぱやフラッシュの様な模様など。 最近はあまり見かけないそういうガラスを勝手に「昔ガラス」と呼んでいる。それを5月に行った滋賀でたくさん見つけた。 今回はそんな、滋賀で見つけた昔ガラスを鑑賞していきたいと思います。それと、それだけだと短いので壁についても少々。というか、大分。 (松 圭司)