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ブックマーク / klov.hateblo.jp (2)

  • 「承認」だけでは済まぬ問題たち―物語と承認の彼方に - No Hedge!

    「承認」の話が自分の観測範囲内でちょくちょく見られるので後出しじゃんけんをしてみる。「ロスジェネ」のシンポでも色々話が出たようだが、パフォーマンスと言えどナイーヴな議論も出たようで、またいくつかの議論はその焦点がぼやけているものもある、と思ったので書いてみた。彼女が出来れば、セックスできれば、コミュニティに所属すれば、作品を認めてもらえれば、「承認」にまとわり付く諸問題は解決する、というわけではない。問題はその深層にある。 自己の連続性としてのアイデンティティ 「承認」と一口に言ってもそれは様々なコンテクストの中で語られ、また意味を持つ。だからこそはてな村で延々と議論されまた車輪の再発見をもたらしうるのだが、それではちょっとノイズが大きすぎるので、社会学者のアンソニー・ギデンズに拠って(彼の)「アイデンティティ」論に置き換えてみる。 まずは引用から。 自己アイデンティティは、生活史という観

    「承認」だけでは済まぬ問題たち―物語と承認の彼方に - No Hedge!
    babelap
    babelap 2016/06/17
  • 「僕等」の居場所としてのWebはもう終わってる - 絶倫ファクトリー

    普通の女子大生は、Google+で「日一」になんかなっちゃいない。 話としては分かるんですよ。でもこういう感性って、もう圧倒的に古いと思うんですよ。 ここで言及されている坂口さんみたいな、Webをセルフプロデュースの場所としてさらっと、自然に使いこなすこの手合いは昔からいたわけで。 それこそブログが産声を上げた瞬間からさ。はてなも例外ではなかったわけでしょ。 Ririkaの思い出:「はてなアイドル」の系譜 - 殺シ屋鬼司令 何も構造は昔から変わってない。でもGoogle+という環境で一番になるってことは、その下に有象無象の下位互換がひしめいていることが想像できるわけで。 一般化は出来ないけど、氷山の一角ではあるはずなんですよ。 Webは自分を売り出す場所ではなく「僕等」の居場所である、という感性はもっちーの時代・Web2.0の時代のレガシーだ。 確かに「僕等」の居場所ではあること自体に変

    「僕等」の居場所としてのWebはもう終わってる - 絶倫ファクトリー
    babelap
    babelap 2011/11/26
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