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上海と明治維新 白柳秀湖『日本外交の血路』を読む6
引き続き白柳秀湖の『日本外交の血路』(GHQ焚書)を読み進んでいく。前回は、昭和七年三月に開かれた徳富... 引き続き白柳秀湖の『日本外交の血路』(GHQ焚書)を読み進んでいく。前回は、昭和七年三月に開かれた徳富蘇峰の古稀記念講演会の中で、白柳が「上海と明治維新」という演題で講演した内容の前半で、英仏米の三国が上海に共同租界を建設して支那経略の足掛かりとしたことを書いたが、今回はその後半を紹介させていただく。 最初にアメリカを相手に開国交渉できたことの意味 イギリスが支那で手こずっている間にアメリカが日本との交渉に動き出した。文中の「チュートン人」という言葉について簡単に捕捉させていただくと、ヨーロッパに住む人々はアルプス以南と以北では文化も考え方も大きく異なり、白柳秀湖は前者をラテン人、後者をチュートン人などと呼んでいる。大航海時代に東洋を征服するために航海に出たのはスペイン、ポルトガル等のラテン人で、その当時イギリス人やオランダ人等のチュートン人はラテン人からは「海賊」と呼ばれていて、船員など
2024/05/01 リンク