短歌の短さは、われわれをどこにも連れて行かない短さだと思う。 その一方で、短歌の長さは、われわれを一見どこかに連れて行こうとしてるかのように見える長さ、でもある。 この微妙な短さまたは長さに揺れ続けることじたいが、短歌という形式とわれわれの関係をつくりだすもののひとつである。 つまり短歌は「どこかへ行けること」と「どこへも行けないこと」の間にある。 言い換えると「どこか」「ここ」の間に短歌はつねに不安定に揺れている。 で、この不安定に揺れることから生じてくる擬似的な空間があり、われわれが自我の置きどころとして使用するのにこの空間は(擬似的なものであるがゆえに)なかなか都合のいいものだったといえるのではないか。 短歌史的なものを踏まえずにいうけど、いわゆる「写生」はこの本来の宙吊り状態から、短歌を「ここ」に固定するための重力を生み出す方法だったと考えられる。 意識を「ここ」に縛り付けることで
This webpage was generated by the domain owner using Sedo Domain Parking. Disclaimer: Sedo maintains no relationship with third party advertisers. Reference to any specific service or trade mark is not controlled by Sedo nor does it constitute or imply its association, endorsement or recommendation.
●散歩の途中で立ち寄った本屋で立ち読みをしていて、「真夜中」に載っている保坂和志の「遠い触覚 『インランド・エンパイア』へ(3)」がすごく面白かったので、立ち読みだけで済ませるわけにはいかなくなって、買って帰った。ぼくは一昨年の十一月に中央大学で保坂さんと対談していて、ここに書いてあることとほぼ同じようなことを確かにその時の保坂さんも言っていたということを思い出すのだが、改めて読んで、ここに書かれていることはやはりとても面白いし、とても重要なことのように思って興奮した。とはいえ、最近の保坂さんの文章は要約するのがほぼ不可能だし、要約してしまったらほとんど意味がなくなってしまうようなものなので、そのごく一部を引用して、それについてぼくが勝手に考えたい。 《夏の夜、羽化寸前の蝉の幼虫が地面を這っていた。それをみつけたお父さんが子供に、 「あ、これは蝉の幼虫だよ。ほら、蝉の抜け殻と同じ形をしてい
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く