青空文庫に関するbeltorchiccaのブックマーク (20)

  • 葛西善蔵 子をつれて

    一 掃除をしたり、お菜(さい)を煮たり、糠味噌を出したりして、子供等に晩飯を済まさせ、彼はようやく西日の引いた縁側近くへお膳を据えて、淋しい気持で晩酌の盃を嘗(な)めていた。すると御免とも云わずに表の格子戸をそうっと開けて、例の立退き請求の三百が、玄関の開いてた障子の間から、ぬうっと顔を突出した。 「まあお入りなさい」彼は少し酒の気の廻っていた処なので、坐ったなり元気好く声をかけた。 「否(いや)もうこゝで結構です。一寸そこまで散歩に来たものですからな。……それで何ですかな、家が定(き)まりましたでしょうな? もう定まったでしょうな?」 「……さあ、実は何です、それについて少しお話したいこともあるもんですから、一寸まあおあがり下さい」 彼は起って行って、頼むように云った。 「別にお話を聴く必要も無いが……」と三百はプンとした顔して呟きながら、渋々に入って来た。四十二三の色白の小肥りの男で、

  • 堀辰雄 花を持てる女

  • 宮本百合子 祭日ならざる日々 ――日本女性の覚悟――

    千人針の女のひとたちが街頭に立っている姿が、今秋の文展には新しい風俗画の分野にとり入れられて並べられている。それらの女のひとたちはみな夏のなりである。このごろは秋もふけて、深夜に外をあるくと、屋根屋根におく露が、明けがたのひとときは霜に凝るかと思うほどしげく瓦やトタンをぬれ光らせている。戦いに年が暮れるのだろうか。 この間二晩つづけて、東京には提灯行列があった。ある会があって、お濠端の前の建物のバルコンから、その下に蜿蜒(えんえん)と進行する灯の行列を眺め「勝たずば生きてかえらじと」の節の楽隊をきいた。あとになって銀座へ出たら、その提灯行列のながれが、灯った提灯をふりかざしながら幾人も歩いていて、どれも背広姿の若い男たちであった。なかに蹌踉(そうろう)とした足どりの幾組かもあって、バンザーイ、バンザーイといいながら、若い女のひとの顔の前へいきなりひょいと円い赤い行列提灯をつきつけたりしてい

  • 寺田寅彦 喫煙四十年

    はじめて煙草を吸ったのは十五、六歳頃の中学時代であった。自分よりは一つ年上の甥(おい)のRが煙草を吸って白い煙を威勢よく両方の鼻の孔(あな)から出すのが珍しく羨(うらや)ましくなったものらしい。その頃同年輩の中学生で喫煙するのはちっとも珍しくなかったし、それに父は非常な愛煙家であったから両親の許可を得るには何の困難もなかった。皮製で財布のような恰好(かっこう)をした煙草入れに真鍮(しんちゅう)の鉈豆煙管(なたまめきせる)を買ってもらって得意になっていた。それからまた胴乱(どうらん)と云って桐(きり)の木を刳(く)り抜いて印籠(いんろう)形にした煙草入れを竹の煙管筒にぶら下げたのを腰に差すことが学生間に流行(はや)っていて、喧嘩好きの海南健児の中にはそれを一つの攻防の武器と心得ていたのもあったらしい。とにかくその胴乱も買ってもらって嬉しがっていたようである。 はじめのうちは煙を咽喉(のど)へ

  • 芥川龍之介 点鬼簿

    僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髪を櫛巻(くしま)きにし、いつも芝の実家にたった一人坐(すわ)りながら、長煙管(ながぎせる)ですぱすぱ煙草(たばこ)を吸っている。顔も小さければ体も小さい。その又顔はどう云う訳か、少しも生気のない灰色をしている。僕はいつか西廂記(せいそうき)を読み、土口気泥臭味の語に出合った時に忽(たちま)ち僕の母の顔を、――痩(や)せ細った横顔を思い出した。 こう云う僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶(あいさつ)に行ったら、いきなり頭を長煙管で打たれたことを覚えている。しかし大体僕の母は如何にももの静かな狂人だった。僕や僕の姉などに画を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に画を描いてくれる。画は墨を使うばかりではない。僕の姉の水絵の具を行楽の子女の衣服だの草木の花だのになすって

  • 太宰治 ダス・ゲマイネ

    恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであった。それより以前には、私の左の横顔だけを見せつけ、私のおとこを売ろうとあせり、相手が一分間でもためらったが最後、たちまち私はきりきり舞いをはじめて、疾風のごとく逃げ失せる。けれども私は、そのころすべてにだらしなくなっていて、ほとんど私の身にくっついてしまったかのようにも思われていたその賢明な、怪我の少い身構えの法をさえ持ち堪(こた)えることができず、謂(い)わば手放しで、節度のない恋をした。好きなのだから仕様がないという嗄(しわが)れた呟(つぶや)きが、私の思想の全部であった。二十五歳。私はいま生れた。生きている。生き、切る。私はほんとうだ。好きなのだから仕様がない。しかしながら私は、はじめから歓迎されなかったようである。無理心中という古くさい概念を、そろそろとからだで了解しかけて来た矢先、私は手ひどくはねつけられ、そうしてそれっきりであった。

  • 安吾巷談 (坂口 安吾)

    小説家。名は炳五(へいご)。新潟市西大畑町に生まれる。幼稚園の頃より不登校になり、餓鬼大将として悪戯のかぎりを尽くす。1926(大正15)年、求道への憧れが強まり、東洋大学印度哲学科に入学するも、過酷な修行の末、悟りを放棄する。1930(昭和5)年、友人らと同人雑誌「言葉」を創刊、翌年6月に発表した「風博士」を牧野信一に絶賛され、文壇の注目を浴びる。その後、「紫大納言」(1939年)などの佳作を発表する一方、世評的には不遇の時代が続いたが、1946(昭和21)年、戦後の質を鋭く把握洞察した「堕落論」、「白痴」の発表により、一躍人気作家として表舞台に躍り出る。戦後世相を反映した小説やエッセイ、探偵小説歴史研究など、多彩な執筆活動を展開する一方、国税局と争ったり、競輪の不正事件を告発したりと、実生活でも世間の注目を浴び続けた。1955(昭和30)年2月17日、脳溢血により急死。享年48歳

    安吾巷談 (坂口 安吾)
  • 作家別作品リスト:渡辺 温

    1902(明治35)年8月26日、北海道生れ。1924(大正13)年、慶応義塾大在学中に、プラトン社の映画筋書懸賞募集に「影」で一等入選。1927(昭和2)年、博文館に入社し、横溝正史編集長のもとで雑誌「新青年」のモダニズム化を推進する。作品はほとんどが掌篇で、主に「新青年」に発表された。1930(昭和5)年、谷崎潤一郎への原稿依頼の帰途、交通事故で死亡。なお、探偵作家の渡辺啓助は一歳年上の実兄、作品集『アンドロギュノスの裔』の挿絵を担当した渡辺東は姪にあたる。(森下祐行) 「渡辺温」 公開中の作品 ああ華族様だよ と私は嘘を吐くのであった (新字新仮名、作品ID:2569) 赤い煙突 (新字新仮名、作品ID:2572) 或る母の話 (新字新仮名、作品ID:220) アンドロギュノスの裔 (新字新仮名、作品ID:2571) イワンとイワンの兄 (新字新仮名、作品ID:401) 牛込館 映画

  • 国木田独歩 運命論者

  • 岡本かの子 狂童女の戀

    と詩人西原北春氏はこの詩人得意の「水花踊」などまだ始まらぬまだほんのほの/″\と酒の醉ひがまはりかけたばかりのところで――あれが始まるころはまつたく泥醉状態になつた西原氏なので――話し始めた。 支那の李太白らが醉つて名詩を作つたといふのはどれほどの醉ひに達したときか知りませんが、わが國の大詩人西原北春氏にありては、今北春氏が

  • 岡本かの子 夏の夜の夢

    月の出の間もない夜更けである。暗さが弛(ゆる)んで、また宵が来たやうなうら懐かしい気持ちをさせる。歳子は落付いてはゐられない愉(たの)しい不安に誘はれて内玄関から外へ出た。 「また出かけるのかね、今夜も。――もう気持をうち切つたらどうだい。」 洋館の二階の書斎でまだ勉強してゐた兄が、歳子の足音を聞きつけて、さういつた。 窓硝子(ガラス)に映る電気スタンドの円いシエードが少しも動揺しないところを見ると、兄は口だけでさういつて腰を上げてまで止めに出ては来ないらしい。 「ええ、もう今夜たつた一晩だけ――ですから心配しないで、兄さんもご自分の勉強をなさつて……。」 歳子は自分の好奇な行為だけを云はれるのに返事をすればたくさんなのに、兄の勉強のことにまで口走つてしまつたので、すこし云ひ過ぎたかと思つたのに、兄は「うむ、さうか」と温順(おとな)しく返事をしたので、却(かえ)つて気が痛みかけた。 「兄さ

  • 坂口安吾 勉強記

    大震災から三年過ぎた年の話である。昨今隆盛を極めているアパートメントの走りがそろそろ現れた頃で、又青年子女が「資論」という魔法使いのに憑(つ)かれだした頃でもあった。生活の形式にも内容にも大きな転換期が訪れようとしていた。「近代」が、また「今日」が、始まろうとしていたのである。 涅槃(ねはん)大学校という誰でも無試験で入学できる学校の印度哲学科というところへ、栗栖按吉(くりすあんきち)という極度に漠然たる構えの生徒が、恰(あたか)も忍び込む煙のような朦朧(もうろう)さで這入(はい)ってきた。強度の近眼鏡をかけて、落着き払った顔付をしているから、何かしら考えている顔付に見えたが、総体に、このような「常に考えている」顔付ほど、この節はやらないものはない。当節の悧巧(りこう)な人は、こういう顔付をしないのである。尾籠(びろう)な話で恐縮だが、人間が例の最も小さな部屋――豊臣秀吉でもあの部屋だ

  • 御身

  • 夢野久作 ルルとミミ

    むかし、ある国に、水晶のような水が一ぱいに光っている美しい湖がありまして、そのふちに一つの小さな村がありました。そこに住んでいる人たちは親切な人ばかりで、ほんとに楽しい村でした。 けれどもその湖の水が黒く濁(にご)って来ると、この村に何かしら悲しいことがあると云い伝えられておりました。 この村にルルとミミという可愛らしい兄妹(きょうだい)の孤児(みなしご)が居りました。 二人のお父さんはこの国でたった一人の上手な鐘造りで、お母さんが亡くなったあと、二人の子供を大切(だいじ)に大切に育てておりました。 ところが或る年のこと、この村のお寺の鐘にヒビが入りましたので、村の人達に頼まれて新しく造り上げますと、どうしたわけか音がちっとも出ません。お父さんはそれを恥かしがって、或る夜、二人の兄妹を残して湖へ身を投げてしまいました。 その時、この湖の水は一面に真黒く濁っていたのでした。そうして、ルルとミ

  • 国木田独歩 画の悲み

  • 芥川龍之介 奉教人の死

    たとひ三百歳の齢(よはひ)を保ち、楽しみ身に余ると云ふとも、未来永々の果しなき楽しみに比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如し。 去(さ)んぬる頃、日長崎の「さんた・るちや」と申す「えけれしや」(寺院)に、「ろおれんぞ」と申すこの国の少年がござつた。これは或年御降誕の祭の夜、その「えけれしや」の戸口に、餓ゑ疲れてうち伏して居つたを、参詣の奉教人衆(ほうけうにんしゆう)が介抱し、それより伴天連(ばてれん)の憐みにて、寺中に養はれる事となつたげでござるが、何故かその身の素性(すじやう)を問へば、故郷(ふるさと)は「はらいそ」(天国)父の名は「でうす」(天主)などと、何時も事もなげな笑に紛らいて、とんとまことは明した事もござない。なれど親の代から「ぜんちよ」(異教徒)の輩(ともがら)であらなんだ事だけは、手くびにかけた青玉(あをだま)の「こんたつ」(念珠)を見ても、知れたと申す。されば伴天連はじめ

  • 堀辰雄 燃ゆる頬

    私は十七になった。そして中学校から高等学校へはいったばかりの時分であった。 私の両親は、私が彼等(ら)の許(もと)であんまり神経質に育つことを恐れて、私をそこの寄宿舎に入れた。そういう環境の変化は、私の性格にいちじるしい影響を与えずにはおかなかった。それによって、私の少年時からの脱皮は、気味悪いまでに促されつつあった。 寄宿舎は、あたかも蜂(はち)の巣のように、いくつもの小さい部屋に分れていた。そしてその一つ一つの部屋には、それぞれ十人余りの生徒等が一しょくたに生きていた。それに部屋とは云うものの、中にはただ、穴だらけの、大きな卓(つくえ)が二つ三つ置いてあるきりだった。そしてその卓の上には誰のものともつかず、白筋のはいった制帽とか、辞書とか、ノオトブックとか、インク壺(つぼ)とか、煙草の袋とか、それらのものがごっちゃになって積まれてあった。そんなものの中で、或る者は独逸(ドイツ)語の勉強

  • 芥川龍之介 浅草公園 ――或シナリオ――

  • 芥川龍之介 好色

  • 寺田寅彦 アインシュタインの教育観

    近頃パリに居る知人から、アレキサンダー・モスコフスキー著『アインシュタイン』という書物を送ってくれた。「停車場などで売っている俗書だが、退屈しのぎに……」と断ってよこしてくれたのである。 欧米における昨今のアインシュタインの盛名は非常なもので、彼の名や「相対原理」という言葉などが色々な第二次的な意味の流行語になっているらしい。ロンドンからの便りでは、新聞や通俗雑誌くらいしか売っていない店先にも、ちゃんとアインシュタインの著書(英訳)だけは並べてあるそうである。新聞の漫画を見ていると、野良のむすこが親爺(おやじ)の金を誤魔化(ごまか)しておいて、これがレラチヴィティだなどと済ましているのがある。こうなってはさすがのアインシュタインも苦い顔をしている事であろう。 我邦(わがくに)ではまだそれほどでもないが、それでも彼の名前は理学者以外の方面にも近頃だいぶ拡まって来たようである。そして彼の仕事

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