Normalize.cssを始めとして、Twitter BootstrapやPureに至るまでCSSのライブラリーは数多くある。それらはそれなりに気をつけて作られているが、他のライブラリーと混ぜることはもとより、ページ制作者のCSSと混ぜることは想定されていない。単純にlink要素を使って先に読ませるか連結するだけで使わないと、開発者はもちろんそれらが使われているページのユーザーにも意図しない不具合が起きる可能性がある。 そのためNomralize.cssなどではわざわざ以下のように推奨されている。 It is recommended that you include the normalize.css file as untouched library code. 概ねライブラリーと呼ばれるものには手を付けるべきではないが、フロントエンド界隈では軽視されている傾向があるように思う。特にC
Will Google Fonts Ever Be Shut Down?という記事を読んだ。とてつもない数のウェブサイトで利用されているGoogle Fontsが果たしていつまで無料で自由に使えるままなのかを、今のGoogle Fontsの状態とその持つ意味から考察されてる。現状ではメリットがあるので提供しているけれども、それがコストに見合わなくなったらすぐやめるんじゃないかみたいな悲観的な観測で終わる。 Google Fontsからビジネス・モデルのようなものがよく見えてこないことと一部の限られたユーザーにのみ高く評価されていることが、ジャンルがまったく違うがGoogle Readerと重なるところがあるのは少しわかる。それを考えるとサービスの停止もありそうと考えてしまうのもわからないこともない。でも悲観的になるのはちょっとわからない。 それほどコストはかかっていないと思うし、とんでもな
我々は、現実をありのまま見ているわけではない。赤外線も見えなければ紫外線も見えないし、網膜に刺激がきてから知覚が成立するまでに約100ミリ秒の遅れが存在している。我々が見ている世界は常に現実から遅れ、脳が処理した映像を「見せられている」と言える。脳の後方、後頭葉に位置する一次視覚野には、網膜から皮質への二地点間マッピングがあって、そこで視野の光や方向や位置が表現される。目からのインパルスは大脳皮質までまわって、一部はその過程で脳の反対側にまわり、視野の左半分は右後頭葉へ、右半分は左後頭葉へ行く。ちょうど逆向きになるわけだ。つまり後頭葉がどちらか、損傷を受けると視野が欠けたりといったことが起こる。 我々は現実を脳で見ているのだから、脳に異常が起これば見えなくなるし、あるいは存在しないはずの物が見えるようになったりする。本書『見てしまう人びと:幻覚の脳科学』はおもに一般向けの脳科学本を出してい
書名からして出オチ感半端ないけれども、人類が滅亡しかかっていて小さい村に一人だけいる刑事──とかそういう意味ではなく、半年後に小惑星が地球に衝突して人類はあぼーんするよという世界で懸命に刑事稼業に励む刑事さんを追っていくお話だ。 こういう大味な設定は──面白いだけに、扱い方が難しいとも言える。全人類に動揺が伝搬していく過程をどうやって書くか? 社会学者、科学者、国家、個人はいったいどういう反応をとるんだろう? 小惑星が当たるとか当たらないとかの発表はいったいどのようなプロセスを描くのだろう。あるいは全人類の対応なんて書かないで、個人の心情に密着して終わる世界を書いていくのか? そっちの方が楽なのは確かだが、それだったら癌で余命宣告でもなんでもいいわけで、あんまり人類滅亡をぶちあげる意味もないようにも思う。もちろん小惑星に核を設置して爆破──とかモビルスーツをけしかけて超スーパーブーストで押
僕が普段よく行く、平日の12;00〜14;00に来た人は500円でカットしてもらえるという10分カット真っ青の激安髪切り屋では切り終わった後必ず「髪すいときますか」と聞いてくる。すいとくってなんやねん、すいとくことによるメリットとデメリットを提示せえやと思いつつも「すいといてください」といってしゅっしゅとなんだか髪の長さを揃えるのではなく全体的に髪の分量を減らして(髪をすくってたぶんそういうことですよね??)くれるのだが、本書はそんな、髪をすくような感じで二十世紀をざっくばらんに振り返ろうという割とめちゃくちゃな一冊である。 20世紀ね〜僕は20世紀をそんなにたくさん生きたわけじゃないけどいろいろあったよね〜ナチスは狂ったように人を殺したし第一次世界大戦も第二次世界大戦も起こって人がばったばったと死んで、毒ガス兵器を開発したけどなかなかうまくいかなかったりもしたし。ソ連は崩壊しちゃったしベ
何事も、「仕事だ」と思ってしまうからなかなか手がつけられない。 「しっかりしたものを仕上げないと」というプレッシャーが、始める気力を削ぐ。結果手をなかなかつけずに、締め切りぎりぎりになって「不本意な」クオリティで提出する。 こんな不合理なことがあってたまるか。 本当は、十分な時間をかけて、納得のいくいい物を作りたいのに。 始める前や始めた直後は、それだけの熱意を持っていたはずなのに。 全部、「初めから完璧にやろう」病のせいだ。 もうやめにしよう。不合理だ。 仕事だとか、きっちり仕上げようとか考えるからこんな沼にはまってしまうんだ。 何でもいいのに、とにかく始めりゃいいのに、うまいことやろうとしちゃうから、「今はコンディションがよくないから」とか何とかっていう理由で手をつけることすら止めてしまうんだ。 ならもう「まともにやろう」とか、「きっちりやろう」とか変に気構えるのを止めよう。 いっその
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