さまざまな商品のデザインやロゴマークを生み出し、工業デザインの第一人者として世界的に知られた栄久庵憲司さんが8日、東京都内の病院で亡くなりました。 85歳でした。 栄久庵憲司さんは昭和4年、広島市の寺の住職の長男として東京で生まれ、戦後、16歳のときに焼け野原となった広島の街で進駐軍の四輪駆動車の力強い形などを見て、工業デザイナーを目指すようになりました。 東京芸術大学を卒業後、工業デザインの会社「GKインダストリアルデザイン研究所」を設立して、ビジネスの世界にデザインという概念を定着させ、さまざまな商品のデザインやロゴマークを作りだしました。 このうち、昭和36年に発表したキッコーマンの卓上しょうゆ瓶は、赤いキャップになめらかな曲線を描く瓶の形が使いやすく暮らしになじむデザインとして大ヒットし、今でもこのデザインは変えられることなく海外でも親しまれています。 また、鉄道の車両やオートバイ
15日に虚血性心不全で亡くなった、声優で俳優の大塚周夫(ちかお)さん(享年85)の葬儀・告別式が23日、東京・青山葬儀所で営まれた。 大塚さんがねずみ男を演じた「ゲゲゲの鬼太郎」で鬼太郎を演じ、この日、弔辞を読んだ野沢雅子は、大塚さんが地下鉄の中で急逝していたことを明かした。当日、大塚さんはナレーションの仕事が終わった後、所属の青二プロダクションの新年会に出席。同席だった野沢と役者談議を交わした中で「俺、死ぬ時は知ってる人がいないところでパーッと死ぬんだ」と語ったという。大塚さんは終了後、帰宅するため地下鉄に乗った直後、車内で倒れたという。野沢は「何も実行することはないのに…どうして?」と涙した。
プロ野球中日で本塁打王、打点王の2冠を獲得した強打者、大豊泰昭(たいほう・やすあき)さんが18日午後10時41分、急性骨髄性白血病のため名古屋市内の病院で死去した。51歳。葬儀は近親者で行う。 台湾出身で名古屋商科大に留学。1年間の中日球団職員を経て、1989年にドラフト2位で中日に入団。巨人と最終戦で優勝を争って敗れた94年には、38本塁打で本塁打王、107打点で打点王を獲得。ベストナインにも選ばれた。 ナゴヤドームが開場した97年のオフに、阪神へトレードとなったが、2001年から再び中日に復帰。02年に引退した。 引退後は台湾担当のスカウトや少年野球の普及活動に力を入れ、中華料理店の経営も手掛けた。 通算成績は14年間で1324試合に出場。4097打数1089安打、277本塁打、722打点。10573振。打率2割6分6厘。(中日新聞)
昭和の映画の最盛期を支えた看板スターで、寡黙な男性を演じて、日本を代表する俳優として国際的に活躍した高倉健さんが今月10日、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で亡くなりました。 83歳でした。 高倉さんは福岡県中間市に生まれ、明治大学を卒業したあと東映のニューフェイスにスカウトされ昭和31年に俳優としてデビューしました。 昭和40年代、「網走番外地」や「昭和残侠伝」などのシリーズで東映の任侠路線のスターとして爆発的な人気を得ました。 また映画の主題歌をみずから歌い、「網走番外地」や「唐獅子牡丹」は大ヒットしました。 昭和51年に東映を退社したあと「幸福の黄色いハンカチ」で不器用な生き方しかできない刑務所帰りの男を演じ、国内のさまざまな映画賞で主演男優賞を受賞しました。 硬派でシリアスな演技を得意としているほか、コマーシャルで使われた「不器用ですから」のセリフが代名詞的な存在になるなど、謙虚な
大相撲元小結でタレントの龍虎さん(本名・鈴木忠清=すずき・ただきよ)が29日午前11時、静岡県掛川市の病院で急死したことが30日、分かった。73歳だった。 都内の自宅で同日夜、取材に応じた貴子夫人(53)によると、死因は循環器疾患で、心筋梗塞とみられる。家族で同市内を旅行中、坂道で歩き遅れて追いついてこない龍虎さんを不審に思った夫人が、呼びに戻ったところ、倒れている龍虎さんを発見した。長女珠子さん(21)長男規裕さん(20)が心肺蘇生措置を施し、救急搬送されたが、意識が戻ることはなかった。 龍虎さんは29日朝、日帰り旅行で同市内を訪れていた。久々の家族旅行を楽しみにしており、貴子夫人は「朝は5時半に起きて、車を出したり、楽しそうだった」。過去に心筋梗塞を患っていたが、最近は体調も良さそうだったといい、同夫人は「異変に気付いてあげられず、心残りです」と涙ながらに語った。 龍虎さんは、57年初
「失楽園」や「愛の流刑地」など男女の愛を追究した作品で知られる作家の渡辺淳一さんが先月30日、東京都内の自宅で亡くなりました。80歳でした。 渡辺さんは、昭和8年に北海道で生まれ、札幌医科大学を卒業後、母校で整形外科の講師をするかたわら小説の執筆を始めました。 昭和43年、札幌医科大学で行われた日本初の心臓移植手術で、医師が殺人罪で告発される事態に発展した「和田移植」をテーマに小説を執筆したことがきっかけで大学を退職し、文筆活動に専念しました。 昭和45年、明治時代の西南戦争で負傷した2人の軍人の人生を描いた小説「光と影」で直木賞を受賞し、その後は医療や歴史、男女の恋愛などを題材に多彩な作品を発表してきました。 また、平成7年に発表した「失楽園」は、不倫関係の男女を描いてベストセラーになり、映画やテレビドラマが作られたほか当時の流行語にもなりました。 平成15年には紫綬褒章を受章し、その後
イタリアメディアによると、世界的に有名なイタリア人指揮者、クラウディオ・アバド氏が20日朝、伊北部ボローニャの自宅で死亡した。80歳だった。 伊北部ミラノ出身。ミラノ・スカラ座の芸術監督やウィーン国立歌劇場の音楽監督、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督を歴任した。胃がんを患い、闘病を続けていた。(ローマ=石田博士)
米国の芸能分野で素晴らしい功績を残した人に贈られるケネディ・センター名誉賞(Kennedy Center Honors)の授賞式に出席した米ピアニスト、ヴァン・クライバーン(Van Cliburn)氏(2001年12月1日撮影、資料写真)。(c)AFP/Chris KLEPONIS 【2月28日 AFP】国際的に有名な米国のピアニスト、ヴァン・クライバーン(Van Cliburn)氏が27日、死亡した。78歳。同氏の財団が明らかにした。 冷戦中だった1958年に旧ソビエト連邦のモスクワ(Moscow)で開催された第1回チャイコフスキー国際コンクール(International Tchaikovsky Competition)に出場し、優勝を収めたクライバーン氏(当時23歳)は、数十年にわたって続いていた東西のイデオロギーの対立と核の脅威を超越した存在として、文化使節としての高い評価を受けて
東京都新宿区で12日夜にタクシーにはねられ重傷を負っていた映画監督の若松孝二さん(76)が17日夜、搬送先の病院で亡くなったことが警視庁四谷署への取材で分かった。 同署によると、若松さんは12日午後10時15分ごろ、同区内藤町の都道を横断していたところ、左側から来たタクシーにはねられた。腰などを強く打って都内の病院に搬送されたが、意識などははっきりしていたという。しかしその後、容体が急変し、17日午後11時5分に亡くなった。【黒田阿紗子】
ひょうひょうとした独特の存在感を持ち味にテレビドラマ、映画、舞台で活躍した俳優で文化功労者、劇団民芸代表の大滝秀治(おおたき・ひでじ)さんが2日午後3時17分、肺扁平(へんぺい)上皮がんのため東京都内の自宅で死去した。87歳。東京都出身。葬儀は近親者のみで行った。「お別れの会」を22日午後2時から東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で開く。喪主は妻純子(じゅんこ)さん。 軍隊生活を経て1948年、民芸の前身劇団の養成所に入り、同期の奈良岡朋子らと50年、民芸創立に参加。 徹底した人物造形に、年齢を重ねて渋味が加わり、テレビ、映画では貴重な存在として、主に脇役で多数出演した。 75年のNHK連続テレビ小説「水色の時」の医師役で注目を集め、北海道の駐在所勤務の警官を描いた「うちのホンカン」シリーズで主演。「特捜最前線」のベテラン刑事役でも人気を集めた。映画の出演は「黒部の太陽」「影武者」
土田は1986年、投稿作「残暑」でコミックオープン・ちばてつや賞一般部門に入選。これが「未成年」と題したシリーズ連載の第1話となり、デビュー作となった。1991年に週刊ビッグコミックスピリッツ(小学館)で連載開始した、津軽の高校生が上京して演歌歌手を目指す「俺節」でブレイク。続いて1994年にはマンガ編集者に転身した元ボクサーの成長を描く「編集王」でヒットを飛ばした。 またヤングサンデー(小学館)にて連載された「同じ月を見ている」は、第3回文化庁メディア芸術祭優秀賞を1999年に受賞。同作は2005年に窪塚洋介主演で映画化もされた。その他の代表作に「俺のマイボール」「ギラギラ」「競馬狂走伝ありゃ馬こりゃ馬」「夜回り先生」など。 近年は週刊漫画ゴラク(日本文芸社)にてシリーズ連載「かぞく」を発表していた。本日4月27日発売の同誌5月11日・18日合併号には「かぞく」の最新話が掲載されている。
印刷 柳宗理さんバタフライスツール 日本の工業デザイナーの草分けで文化功労者の柳宗理(やなぎ・そうり、本名・宗理〈むねみち〉)さんが25日、肺炎で死去した。96歳だった。葬儀は近親者で行う。喪主は妻文子さん。 東京都出身。日用品に美を見いだす民芸運動の創始者柳宗悦の長男として生まれた。東京美術学校(現東京芸術大)では洋画を学んだが、終戦後の1950年代から工業デザイナーとして活躍。チョウが羽を広げたような形のいす「バタフライスツール」や白磁器などのデザインが57年の第11回ミラノ・トリエンナーレで金賞に輝き、世界的に知られるようになった。 やかんやスプーン、皿など、実用的で美しい作品を数多くデザインし、ニューヨーク近代美術館などの永久コレクションに選定されているバタフライスツールも含めて、多くは現在も作り続けられている。東名高速道路東京料金所の防音壁や、各地の歩道橋など公共建造物も手
戦後落語界の風雲児として絶大な人気を誇った、立川談志(たてかわ・だんし<本名・松岡克由=まつおか・かつよし>)さんが21日、死去した。75歳。 東京都出身。小学生のころから寄席に通い、1952年、16歳で五代目柳家小さんに入門、小よしを名乗った。63年、五代目談志を襲名し真打ちに昇進した。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く