戦前・戦中の写真と晩年の李香蘭の語りで構成 旧満州などの写真127枚について、李香蘭こと山口淑子さんが思い出を語る 山口淑子さん本人の肉声も一部収録。晩年の回想がよみがえる 取材した記者が見た晩年の山口さんと李香蘭の生き方 李香蘭とは何だったのか。その活躍と戦後たどった道を振り返る
![李香蘭が語るアジア:朝日新聞デジタル](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/14df3205b51beccca054e49bdfdb0b47ecabef7c/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fwww.asahicom.jp%2Fspecial%2Frikoran%2Fimages%2Fog.jpg)
戦前・戦中の写真と晩年の李香蘭の語りで構成 旧満州などの写真127枚について、李香蘭こと山口淑子さんが思い出を語る 山口淑子さん本人の肉声も一部収録。晩年の回想がよみがえる 取材した記者が見た晩年の山口さんと李香蘭の生き方 李香蘭とは何だったのか。その活躍と戦後たどった道を振り返る
よみがえる膨大な白黒写真 - 国策鉄道会社が遺した戦時期広報用写真の研究データベース 公開目的・公開宗旨: 日本語 | 簡体中文 | 繁体中文 | 華北交通アーカイブは、日中戦争期に中国北部・西北部(華北)の交通インフラを管轄していた華北交通株式会社(以下、華北交通)が所蔵していた3万8千点あまりの広報用ストックフォトをもとに構築された統合型の研究データベースです。ここに含まれる個々の写真は、当時の風物を詳細に調べるための精密(precise)な資料としての価値があります。一方、写真群全体の意味を考えるには、特定の撮影対象がなぜ選ばれたのかという意図を考えることも不可欠であり、そうしたバイアスを踏まえると、この写真群は事実の正確(accurate)な描写とはみなせない面もあります。こうした問題を考えるために、戦時期日本人/日本語話者向けに用いられた広報用写真を学術研究資源として公開しました
中国政府はラサで再び歴史的建築物の一つを自分たちの都合のいいように、歴史を書きかける道具として修復、復元した。今回はジョカンの北にあるトムシカン。清朝時代には「駐蔵大臣」の住居として使用されていたこともある、300年に及ぶ歴史を持つ建物である。 これをいつものように「チベットは嘗てより中国の一部であった」という虚構の偽の裏付けとして「歴史陳列館」という観光施設の一つとしてオープンしたのだ。この清朝時代の「駐蔵大臣」は清朝の大使のような役割を担っていただけであり、決してこれをもってチベットが清朝に属していたという証拠にはなり得ない。それ以前に第一、満州族の王朝である清朝がどうして現在の中国共産党の前身になり得るのか?いつもながら2重に不思議で理解不能な解釈である。 以下、ウーセルさんが7月24日のブログでこの建物復元について多くの写真と共に詳しく報告されているのでこれを紹介する。 原文:改写
ボグド・ハーン政権の統治機構は清朝のそれをほぼ承継し、速やかな政府構築を行なった。また、モンゴル統一のため内蒙古に軍を派遣し、一時はその大部分を制圧したが、政権の後ろ盾であるロシア帝国が清朝との関係悪化を懸念し、モンゴル軍の内蒙古からの撤退を要求したため、断る術の無いボグド・ハーン政権は国土統一を目前にして撤収を余儀無くされた。 1915年、キャフタ協定で清朝の後継国家である中華民国宗主権下での外蒙古は自治のみが承認された。内蒙古でも独立を目指す動きが見られたが、内蒙古の大半の地域が漢民族居住地になっており、中国は内蒙古を手放そうとしなかった。また、漢民族が主体の内蒙古を併合することで政権の主導権を奪われることを恐れたモンゴル人の思惑もあり、内外蒙古の合併は実現しなかった。 1917年、ロシア革命が勃発してロシア帝国は崩壊し、中国は後ろ盾を失った外モンゴルに対する勢力回復に乗り出した。19
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