【新華社太原1月16日】先ごろ終了した雲岡石窟上部の発掘で、中国の考古関係者が遼代から金代にかけての鋳造工房跡を発見した。山西省の雲岡石窟研究院が先ごろ明らかにした。専門家によると、この遺跡は「天工開物」の記載に最も近い遼金時代の鋳造工房跡で、この時代の鋳造工房跡としては最も保存状態が良好だという。 雲岡石窟は山西省大同市の西側約16キロの武州山南麓に位置し、今から1500年前に建設が始まった。仏教芸術が中国に伝わってから作られた仏教芸術の宝庫で、2001年にUNESCO(国連教育科学文化機関)の「世界遺産文化リスト」に登録された。 山西省考古研究所、雲岡石窟研究院などの研究者からなる雲岡合同調査隊はこの数年、雲岡石窟上部で遺跡の調査と発掘を行ってきた。調査隊は今年、第5窟と第6窟の上部で、北魏から遼金時代(西暦386~1234年)にかけての仏教寺院遺跡を発見した。鋳造工房跡はこの遺跡の仏
【新華社西安1月17日】今年の夏に始まった秦始皇陵(秦始皇帝陵)の「百劇俑坑」の第2次発掘が順調に進んでおり、秦代の木造建物遺構の発掘が始まっている。実測や写真撮影などの作業を終えると、次の段階の発掘が始まり、「百劇俑坑」の内容や様式が全面的に明らかにされる。 秦始皇陵博物院の張衛星考古隊隊長は次のように説明した。国家文物局の認可を得て行われている今回の発掘は完全な学術調査で、「百劇俑」に関するより多くの情報を入手するとともに、俑坑の具体的な構造やこの千年間の変化などを明らかにすることによって、文化財保護や展示活動のための科学的データを集めるために実施されている。 「百劇俑坑」と名付けられた副葬坑は秦始皇陵南東の内城と外城の間にある。1999年3月、秦始皇陵考古隊はこの副葬坑の緊急発掘を行い、この地区では体積、重量ともに最大の青銅製の鼎を発見し、11体の陶俑が出土した。 秦始皇陵博物院の曹
【新華社瀋陽11月24日】遼寧省瀋陽市瀋北新区カク(邱の丘を赤に)心台村の近くで先ごろ、青銅器時代の遺跡が発見された。調査の結果、この遺跡は今から3000年以上前のもので、新楽上層文化の重要な中心集落遺跡である可能性が高いという。 有名な新楽遺跡は、瀋陽市皇姑区黄河大街の新開河北岸の黄土高原に位置し、1977年に初めて発掘が行われ、7200年前のものであることが確認された。 瀋陽市文物考古研究所の姜万里所長は次のように説明した。瀋北新区のカク心台青銅器時代遺跡は、カク心台村の北西約600メートルの台地上にある。海抜は71メートル、平面はほぼ方形で、面積は約4万平方メートルにのぼる。この遺跡は環状4号バイパスの建設現場で見つかったもので、これまでに発掘調査が行われたのは1500平方メートルにすぎないが、すでに重要な成果があった。
【新華社石家荘8月5日】河北省ギョウ(業+おおざと)城遺跡の城門の一つ、広徳門の発掘調査で、先ごろ地下に埋まった焼けた土と炭の塊が見つかった。これにより「六朝の古都」ギョウ城が後に隋の初代皇帝となる楊堅によって、西暦580年(北周大象2年)に焼かれたという歴史書の記載が裏づけられた。同省臨ショウ(さんずい+章)県の文化財担当機関が明らかにした。 同遺跡は全国重点保護文物で、同県の県都の南西部、ギョウ鎮、三台村一帯に位置する。春秋時代に斉の桓公が築き始め、西暦580年に楊堅によって焼かれた。曹魏(西暦220~265年)、後趙(319~351年)、冉魏(350~352年)、前燕(337~370年)、東魏(534~550年)、北斉(550~577年)の六朝が都を置いた。約400年間、黄河流域の政治、経済、軍事、文化の中心地で、「六朝の古都、三国志ゆかりの地」と言われている。 遺跡は南北に連なる二
【新華社瀋陽5月7日】遼寧省の文物局と測量・地図作製局は先ごろ、長城資源調査報告の中で、山海関の外側の遼寧省綏中県で長約20キロの長城跡を新たに見つけたことを初めて明らかにした。今回見つかったのは「南線長城」で、遼東鎮長城と薊鎮長城の関係が確認された。 新たに見つかった城壁は、綏中県永安堡郷ショウ(けものへん+章)狼銃村溝外屯の南嶺山長城第1区間から南線に属する李家堡郷婁家溝村荊条溝屯の荊条溝北山長城までで、北線の錐子山~金牛洞区間の長城と並行している。調査の基準に従い、この区間を32に分けている。城壁は石垣が中心で、南嶺山の自然の地形を巧みに利用し、北線長城と呼応する形で強固な防護障壁を築いていた。 調査に参加した遼寧省の考古学専門家、王綿厚氏は次のように述べた。学術界と文献資料では、遼東鎮長城の遼西区間と薊鎮長城の西端の接点について、見解が異なっていた。今回の発見で錐子山を境にした薊遼
【新華社石家荘7月9日】7河北省の省都石家荘市で今年5月の調査で見つかった戦国時代の中山国の墓群の発掘が基本的に完了し、当時の人々の生産や生活を研究し、中山国の神秘のベールを剥ぐための実物資料となる大量の遺物が出土した。 河北省文物研究所の考古学調査隊は今年5月、石家荘市平山県両河郷張楊村で戦国時代の中山国の墓群を発見し、16基の墓を確認した。同研究所と石家荘市文物保護研究所、中山国古城遺跡管理所は5月20日から合同で墓群の発掘調査を開始した。発掘を当面実施しない4基を除く12基の発掘作業が基本的に終わった。 墓は平面がすべて長方形で、向きが南北と東西のものがあり、前者は発掘区域の東側に9基、後者は西側に3基ある。最も大きい墓は長さ4メートル、幅2・9メートル、最も小さいものは長さ2・5メートル、幅1・55メートル。最も浅い墓は地表から2・2メートル、最も深い墓は地表から6メートル近くある
【新華社石家荘7月14日】河北省邯鄲市永年県竜泉村の村民は先ごろ、北京と深セン(土+川)を結ぶ京深高速道路から西に約100メートルの地点で、残土の整地を行っていた際、古代の墓に用いられた磚の破片を発見した。連絡を受けた現地の文化財担当者が現場の調査を行い、墓志銘、鎮墓獣、彩色陶俑、鉄剣、瑪瑙の珠、玉器の破片、金製の指輪など26件の遺物を発見した。 出土した墓志銘の記載によると、墓主は男性で、姓は游、名は松、字は士祥で、広平郡の出身だった。北朝東魏の天平年間(西暦534~537年)に大承相諮議参軍を務めた。先祖は周王朝のカク(左は妥の女を寸に、右は虎)国とカイ(邱の丘を會に)国の国公を務め、周の天子から「游」姓を賜った。游松は天平4年(西暦537年)に47歳で死亡し、翌538年、この地(易陽県苟山旧塋)に埋葬された。驃騎大将軍、冀州刺史などの名を贈られた。
【新華社フフホト7月30日】内蒙古自治区通遼市ホルチン区で面積約6万4000平方メートルの古城遺跡が見つかり、専門家は、800~1000年前の遼代(西暦916~1125年)の州城とみている。 ホルチン区文化局文化財調査チームが2009年9月、全国第3回文化財調査期間中のフィールド調査で、莫力廟ソム(郷に相当)の福巨ガチャ(村に相当)の北約3キロのところで遺跡を発見した。初歩的調査では、遺跡は東西約2100メートル、南北約300メートルで、面積が約6万4000平方メートルある。 自治区の文化財担当部局が専門家チームを派遣して調査したところ、古城内で建物の大量の遺構と鉄鍋、石臼、車具、犂、鉄製サン(金+産)(いたがね)、宋代の貨幣、鮮卑族の陶磁器片などが見つかり、遺跡の東では寺院跡も見つかった。今年4月、福巨ガチャの村民が整地をしていた際、遺跡の東部でレンガ窯跡を発見した。遺跡は新開河と西遼河
【新華社西安7月30日】考古関係者は先ごろ、秦国初期の都城だった雍城の城内で、2300年前の墓を初めて発見し、秦国の葬送文化と古代都城を研究するうえで貴重な資料となった。 陝西省考古研究院の田亜岐研究員は次のように述べている。この数十年、考古関係者は陝西省鳳翔県に位置する秦国の都城だった雍城遺跡で断続的な発掘調査を行っており、都城外側の20カ所あまりの地区に秦代の墓群があることを発見し、見つかった墓の数はこれまでに2000基を超えた。しかし先ごろの調査では、都城内では初めてとなる墓を発見した。この発見は秦国の儀礼制度、文化風習、都城の機能区分などに関する研究にとって、重要な意味を持っている。 以前の発掘調査では、秦公、秦王の大型墓と秦人の墓地はすべて雍城城址南側の雍水の河畔にあった。しかし近年、考古関係者は城址の東側、西側、北側でも発掘調査を行い、当時の墓地を続々と発見した。その結果、当時
【新華社石家荘6月23日】 青蘭高速道路(青島~蘭州)の建設にあわせて、河北省の考古関係者は邯鄲市渉県南崗村で12基の金代墓の緊急発掘を行い、209点のさまざまな遺物を発見した。2点の美しい磁器枕の発見は、磁州窯の磁器の焼成は金代が最盛期だったことを証明するもの。河北省文物研究所が22日明らかにした。 河北省文物研究所の専門家は次のように述べた。12基の金代墓から出土した209点の遺物の内訳は、磁器が11点、土器が3点、銀器が2点、鉄器が1点、玉珠が96点、銅銭が96枚である。磁器に含まれていた2点の美しい枕は今回の発掘における重要な収穫だった。 2点の枕のうち1点は「白地黒花鳥紋虎形枕」で、外観はトラが伏せたような形で、背中が頭をのせる場所になっている。そこには黒で斜めに竹が描かれ、その上にカササギが立っている。枕全体は白地で画は黒く、ややトラ皮のように黄色く塗られている。もう1点は「緑
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く