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2013年3月31日のブックマーク (2件)

  • 百年新報 (1913.03.22) | 東京史楽

    宋教仁狙撃 「東京朝日新聞」1912/03/22 上海停車場の椿事 兇漢は直ちに逃走 宋教仁氏は人も知れる如く、革命党員中錚々たる急先鋒にして、永く日に亡命し、具さに辛酸を嘗め、一昨秋の革命乱にて黄興氏等と相携へて各地に奔走し、事成るに及んで、白面の一亡命客は忽ち唐内閣に農林部総長の栄職を得、声望隆々たりしが、後、職を退き、五政党を統一して国民党を組織し、現に其理事たる人なり。 昨夜十二時、宋教仁は黄興と共に参議院議員の北京に行くを送りて滬寧線上海停車場に到り、改札口に佇み居る時、一人の支那壮漢、突如として宋教仁に接近し来り、ピストルを以て宋を狙撃する事四発、其一発は宋の腹部に命中し、宋は倒れたるが、之を見たる右の支那青年は機敏に逃走せり。宋教仁は直にレーンジ・ロードの鉄道病院に送られたるが重傷なりと云ふ。同行の黄興は危険を恐れ、停車場役員の自動車を借りて帰宅せり。 当地日旅宿なる豊陽

    bitheiboo
    bitheiboo 2013/03/31
    百年前の宋教仁暗殺事件の『東京朝日新聞』の記事。このブログでは、その後の続報についても採録している。当時の雰囲気が伺えて興味深い。
  • 康煕帝諸皇子の王府

    と言うワケで、前回のエントリ・康煕帝の諸皇子に続いて康煕帝の諸皇子のネタです。北京の観光名所・雍和宮は雍正帝が即位前に雍王府として使用されていた王府だと言うコトは自分も知っていたのですが…さて、他の王府って今どうなっているんだろう?っていう事に興味が出たので、ツラツラ《北京古建築地図 上》を見ながらチェックしました。で、更に《乾隆京城全図》iの目録を元にGoogleEarth版で確認を取りました。おおよそココかなぁ…って言う場所を比定したところもあります。ただ、他に確認しようもないので自信ないですねえ…。乾隆年間の北京に対してはいつもは力強い《日下旧聞考》も王府については書かれてません。雍正帝の潜龍邸であった雍和宮についても記述がありませんしねぇ。《乾隆京城全図》は乾隆15(1750)年ごろに成立したと言われていますので、この頃の事情を反映した内容になってます。なので、この年に没した輔国公

    康煕帝諸皇子の王府
    bitheiboo
    bitheiboo 2013/03/31
    これは力作!じっくり読ませて頂きます。