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ブックマーク / sengna.com (24)

  • 清代の起居注冊と実録の編纂

    加藤直人『清代文書資料の研究』汲古叢書131 をつらつら読んでいると、起居注冊や実録の編纂過程が分かって面白かったので、ツラツラと年表にまとめてみたら、なんか大変な感じになってしまいましたよ…。 なんだか表が壊れてるので巧いこと表示できないかもしれませんが、折角作ったので置いておきます。 清朝起居注及び実録編纂年表 年号西暦起居注冊実録事件

    清代の起居注冊と実録の編纂
    bitheiboo
    bitheiboo 2016/03/23
    「皇統に関わる事件が起こって、解決するとなんだか実録まとめにかかってない?」。なるほど。こうして年表を作成してみるとまた新たな発見がありますね。
  • アキナとサスヘ;追記2

    と言うワケで、《愛新覚羅宗譜》や王佩環《一個登上龍廷的民族──滿族社會與宮廷》遼寧民族出版社 と言った史料に目を通してみたので、再度追記という形でアキナとサスヘネタをもう一度…。 まず、《一個登上龍廷的民族──滿族社會與宮廷》で引用されていた、《黑圖檔》の該当箇所を見てみましょう。 “……neneme akina gebu halarade geren wang ambasa genefi ududu mudan sorgire jakade teni gebu araha……”i 漢訳:“……先前阿其那改名字时,因诸王大臣前去数次催促,才改了名”。ii やはり前段の引用はこのからのようですね。一字一句差が無かったです。まぁ、どうもこののマンジュ語標記にはちょっと疑問が残るので何とも言えんのですが…。 hoso i unenggi cin wang tomohonggo cin wan

    アキナとサスヘ;追記2
    bitheiboo
    bitheiboo 2015/01/13
    これも参考になります。それにしても雍正帝は性格が……^_^;
  • 冰嬉

    長年の懸念事項である冰嬉に関する記事を見つけたのでメモ。 と、最近冰嬉で検索するとコレばっかり引っかかるんですよね…。《後宮 甄嬛傳(邦題:宮廷の諍い女)》という人気ドラマの一シーンです。 この動画の03:44頃から安陵容のフィギュアスケートが始まります。で、人気ドラマの有名なシーンで使用されたことで、割と冰嬉自体がメジャーになったようで、圓明園ではこんなアトラクションもやるようになったみたいですね…。 それはさておき…。実は清朝の宮廷画の中に《冰嬉図》と題されたモノが結構あり、わりとメジャーな画題なんですよね。自分も美術展などで清朝の宮廷絵画が来るときは冰嬉が題材の絵画あると喜んで見に行きます。2012年に開催された北京故宮博物院200選展で展示されていた〈乾隆帝紫光閣遊宴画巻〉には冰嬉大会の様子が描かれていました。これも面白い絵画で、冰嬉大会の様子が右から左に流れる絵巻でどうやら時間経

    冰嬉
    bitheiboo
    bitheiboo 2015/01/12
    良記事!冰嬉は確かに軍事訓練としての意味合いが強いんですよねえ。
  • 順治前半のまとめ(ドルゴン期)

    と言うワケで前回に続いて論文とか《清史稿》とか《清三朝実録採要》あたりをザラッと読んでまとめたメモなのです。 ドルゴンの勢力拡大⇒ 翌順治元(1644)年4月、今度は正藍旗所属のホロホイiが正藍旗旗王である肅親王・ホーゲがクーデターを謀っていると告発。 ホロホイの供述 :両黄旗の実力者を味方に付けたホーゲはドルゴンが元々身体が弱く病がちなので、摂政の職務を全うできないと断定。 :豫親王・ドドも以前はホーゲ擁立に動かなかったのは間違いだったという発言をしていた…と、ホーゲが語った。 :ホーゲはホラホイらも自派に加わるように強要。 この事件により、ホーゲの推戴者とされた大臣達は処刑され、ホーゲ自体も多羅肅郡王に降格され、失脚している。 入関直前⇒ 同月、大明滅亡の報に接すると、ドルゴンは范文程ら漢人旗人の入関の献策を入れて李自成の大順を制圧するために出征。 この際、ドルゴン勢力圏である両白旗、

    順治前半のまとめ(ドルゴン期)
  • 清初ウラナラ閨閥

    前項で触れた四人の皇族の嫁さんがみんなウラナラ氏ブジャンタイiって人の娘さんだった話の続きです。サックリ種明かしをしてしまえば、このブジャンタイって人はフルン四国(海西女直)のウラの最後のベイレ(国主)・ブジャンタイ・ベイレ(Bujantai 布佔泰)のことです。 ブジャンタイは継位前の万暦19(1591)年にヌルハチがハダ、ウラ、ホルチン部など九ヶ国連合軍と戦って破ったグレの戦いで、ヌルハチの捕虜になっています。で、処刑されそうになったところを命乞いして助命して貰って、その後三年間抑留されています。その頃のウラのベイレはブジャンタイの兄・マンタイ・ベイレ(Mantai 滿泰)でしたから、この当時のブジャンタイは王弟みたいな立場ですね。ベイレに近しい親族ですから、戦後、兄であるマンタイ・ベイレからはブジャンタイの保釈要求も出された様です。しかし、ヌルハチが聞き入れなかったようですね。で、抑

    清初ウラナラ閨閥
    bitheiboo
    bitheiboo 2014/11/29
    この辺の話は本当に面白い。
  • 艾度禮その4

    と言うワケで、《愛新覚羅宗譜》を調べてきました。婚族が分かってスッキリしますね…。と言うワケで、以下にアイドゥリとともにアダリ、ショトについてもザザッと上げてみましょう。 第二子 碩託 三子 庚子年十一月初十日丑時生母嫡福晋李佳氏逹諸祜巴宴之女(中略)於崇徳八年癸未八月十八日處死年四十四歳(中略)嫡烏喇納喇氏布占泰貝勒之女(後略)i 第一子 喇喀 二子 天命十一年丙寅六月初七日午時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女(後略)ii 第二子 齋蘭布 無嗣 天聰六年壬申二月十六日酉時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女(後略)iii 第三子 岳賽布 五子 崇徳三年戊寅七月廿六日巳時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女(後略)iv ショトのアンバ・フジン(正)はウラナラ氏のブジャンタイの娘で、記録に残る三人の子供は皆この女性との間に出来た娘さんだったようですね。 第一子 阿逹理 一子 天命九年甲子九月十七日丑時

    艾度禮その4
    bitheiboo
    bitheiboo 2014/11/29
    皇族や有力旗人の閨閥・婚姻関係は清初史を考える上で欠かせない要素。
  • 九王奪嫡のマンジュ封号

    さて、辮髪乙女ゲードラマこと《歩歩驚心(邦題:宮廷女官・若曦(ジャクギ))》の再放送をツラツラ見てました。何のかんのやっぱ面白いですよねぇ。自分は主人公の若曦にはあんまり感情移入出来ないんですが、まぁ、乙女ゲードラマなので、この人は阿哥たちを描くための狂言廻しですしねぇ。てか、マンジュなので来ルォシィとでも呼ぶべきでしょうけど、この時代だとどうですかねぇ…。元々漢字を想定した名前は漢字のママで良いのかなとも思います。ともあれ、このドラマは史料読んだだけではさして魅力的とも思えない多羅敦郡王・胤䄉はじめ他の阿哥たちを魅力的に描いてますよね…。確かに十阿哥は愚かかも知れないけど、案外気持ちの良い奴だったのかも知れないなどとはこのドラマ見るまで思いもしませんでしたというか、さして印象強かったわけでもないですしw と言うワケで、今回は九王+α達の名前のマンジュ語読みとマンジュ語の封号を調べて見ま

    九王奪嫡のマンジュ封号
    bitheiboo
    bitheiboo 2014/11/24
    雍正帝による康煕帝遺詔改竄説については確かに「マンジュ文にしろ漢文にしろ、線一本足しただけでどうにかなるモンじゃないだろ」ですよねえ。マンジュ文の封号はいろいろ面白い。
  • アキナとサスヘ;追記1

    と言うワケで、前回ネタにしたアキナとサスヘですが、ネットを検索し続けてたら、わりと色々あったのでお蔵出しをば。 雍正上台后把「八阿哥、九阿哥」改名为「阿其那、塞斯黑」,这两个名字是什么意思? これは、どうやら中国版の知恵袋とか小町みたいなページですかね。マンジュ熱が凄く熱い人の回答が常軌を逸していて勉強になります。内容については多分下に挙げてる様な論文がソースと言うコトになるかと思います。独自に辞書や上奏文などから画像も貼り付けていますし、読み応え有りますね。 で、まずは犬と豚のマンジュ語の語彙に関してはこの論文が元になっているようです。もっとも、この論文の通りには上げていませんけど…。 沈原〈“阿其那”、“塞思黑”考释〉《清史研究》1997, 0(1): 90-96 �各種犬のマンジュ語一覧 indahūn 狗⇒犬 ajirhan 牙狗⇒雄犬 enihen 母狗⇒雌犬 taiha 长毛细

    アキナとサスヘ;追記1
    bitheiboo
    bitheiboo 2014/11/24
    「アキナ」・「サスへ」についての史料・研究史まとめその2。参考になります。
  • アキナとサスヘ

    さて、いよいよ《歩歩驚心》の再放送もクライマックスで、八阿哥の命運も風前の灯火です。で、このあたりで出て来るアキナ、サスヘという八阿哥と九阿哥の別名ですが、宮崎市定の『雍正帝 中国の独裁君主』中公文庫ではこうなっています。 ──あいつはもう皇族ではない。一介の平民だ。皇族と間違えられそうな名前を持っていては他の兄弟が迷惑する。なんと名前をつけかえたらいいか、人に聞いてまいれ。 使者がこの旨を取りつぐと、八阿哥は平気な顔をして、ただ一言答えた。 ──犬。 ──よし犬になれ。 雍正帝は即座に八阿哥を犬にしてしまった。満洲語で犬のことをアキナという。これから朝廷では八阿哥の名をよんではならなくなって、いつもアキナと称した。i 雍正帝の命によって宮内省は九阿哥から皇族の身分を剥奪することを決めた。皇族ではなくなると改名せねばならぬ。どんな名前がつけられたいかと聞きにやったが、九阿哥の原案が雍正帝

    アキナとサスヘ
    bitheiboo
    bitheiboo 2014/11/24
    「アキナ」と「サスへ」についての史料・研究史まとめ。とりあえず「犬」と「豚」という意味ではないということ。しっかしまあ、なんというか雍正帝も性格悪い(^_^;)
  • 《瀋陽状啓》八月二十六日

    さて、清初を扱った論文を読んでいると、《瀋陽状啓》という書名にぶち当たることがあります。これ何かというと、瀋陽=ムクデン・ホトンに人質として抑留させられていた李氏朝鮮の世子…つまり王太子である昭顕世子が朝鮮王・仁祖に提出していた報告書ですね。存在は知っていたモノどういった性質の書物かよく分からず、興味はあったのですがほったらかしにしてたんですが、サクッと検索したところ国立国会図書館のデジタルアーカイブに戦前のが登録されてるのをうっかり発見しました。 国立国会図書館デジタルコレクション 瀋陽状啓 戦前の帝大であった京城帝国大学の法文学部の出版ですね。どうやら朝鮮王朝の奎章閣に保管されていた書簡を校訂して出版したようです。影印が巻頭に載っていますが、これを解読するのはさぞ骨が折れたと思います。しかも、純粋な漢文ではなく朝鮮王朝で使用された漢文なので、朝鮮語発想で書かれた文章は非常に読みにくい

    《瀋陽状啓》八月二十六日
    bitheiboo
    bitheiboo 2014/11/24
    この史料も一度じっくり読んでみたい。清朝側史料からはうかがい知れない内容。正直に告白すると、自分はどちらかと言えば主に入関後の清朝について学んできたので、入関前についてはまだまだ知らないことばかり。
  • 愛新覺羅宗譜

    ネットでツラツラ検索していて、《愛新覚羅宗譜》についての記事を見つけたので、リンクを上げときます。 愛新覺羅宗譜─台灣Wiki 内容に関してどの巻にどの系譜が載っているのか、ザッと載っていたので抜き出してみます。 學苑出版社1998年影印31冊分卷內容如下: 甲冊1-4: 德宗景,穆宗毅,文宗顯,宣宗成,仁宗睿,高宗純,世宗憲,聖祖仁,世祖章,太宗文皇帝位下之子孫。 乙冊1-4: 太祖高皇帝位下:第1子貝勒褚英,第2子親王代善,第3子鎮國公阿拜之子孫。 丙冊1-4: 太祖高皇帝位下:第4子鎮國將軍湯古代,第5子鎮國莽古爾泰,第6子輔國公塔拜,第7子親王阿巴泰,第9子鎮國公巴布泰,第10子鎮國德格類,第11子鎮國巴布海,第12子鎮國阿濟格,第13子輔國公賴慕布,第14子親王多爾袞,第15子親王多鐸,第16子費揚果之子孫。 丁冊1-4: 顯祖宣皇帝位下第2子貝勒穆爾哈齊,第3子親王舒爾哈齊,

    愛新覺羅宗譜
  • 康煕帝諸皇子の王府3

    と、前回の続きで康煕帝の皇子達の王府の位置を再度調べて見ました。 文に入る前に、以前に作った地図を《清北京歴史地図》iで不明確だった王府の位置を特定したり、後で入手した資料で補強した地図を提示しておきます。 思ったほど偏ってはいないんですが、何故か西南隅には王府がなかったみたいなんですよねぇ…。折角地図にしたのでちょっと八旗の居住地と王府の位置関係も確認して見たのですが今ひとつよく分かりませんでした。あと、平西府と密雲県博物館もチェックしてます。 12:履親王府☞東直門内針銭胡同 東西寛街 宸垣識略‥履親王府、固山誠貝子府、倶有東角樓寛街。謹案‥王諱允祹、聖祖十二子、乾隆間任議政、諡懿。再傳無嗣。高宗以四子履端親王永誠繼之、今爲楙公第、在後海南。嘯亭續録云‥府在北小街。ii 謎の十二阿哥は王府も謎ですね。どうやらロシアと関係が深い土地柄だったらしく、十二阿哥の在世中からロシア正教の教会が

    康煕帝諸皇子の王府3
  • 《嘯亭雑録》と礼親王・昭槤

    そんなこんなで、清代王府の位置を知る過程で《嘯亭雑録》を買ってみました。サラッと読むと、やはり歴史の話題を中心とした随筆ですね。神田信夫『清朝史論考』山川出版 の中にそのものズバリ、「『嘯亭雑録』と其の著者礼親王昭槤」という論文が載っているのですが、コレを読むとどうやら《嘯亭雑録》はかなり歴史的価値の高い随筆みたいですね。個人的にはいきなり〈太宗讀金史〉の項で辮髪と言うか満洲の衣冠に触れていた点で評価高まりましたし、その次が〈設間誅袁崇煥〉だったりするので、序盤からおお!って思いますわね。 で、その著者である昭槤ですが…この人、九代目・礼親王なんですよね。礼親王・ダイシャンの後裔です。漢語版Wikipediaの記事によると、乾隆41(1776)年の生まれで、道光13(1833)年に病没しているようです。礼親王の王位には、嘉慶10(1805)年から嘉慶20(1815)年までの十年間ついていた

    《嘯亭雑録》と礼親王・昭槤
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    bitheiboo 2013/09/05
    『嘯亭雑録』はパラパラめくってるだけでも面白い!
  • 康煕帝諸皇子の王府2

    ……とまぁ、前回の記事で書いたように、雍正年間に消えてしまった王府については調べようがないんだろうなぁ…等と考えていたわけですが、ふと思い立って”廉親王府”と言うキーワードで検索してみたところ…意外にも引っかかりましたね…。しかも、直郡王府、固山貝子允禟府、敦郡王府のことも記載があります。 穿越步步驚心 踏尋阿哥們住的地方(組圖) 穿越步步驚心 踏尋阿哥們住的地方(組圖) この記事も《歩歩驚心》の放送当時に書かれた記事みたいなので、おおよそ皆考えることは一緒みたいですね。…書いてあることは興味深いのですが、ビジュアル的には今ひとつ正しいかどうか判断出来ません。というか、九阿哥府邸のこのハイカラな建物は一体?なんでまた、《乾隆京城全図》の和親王府が赤線で引かれてるの?とか、よく分かりません。 で、その後この頁の元頁と思われるところも検索して発見…。よく分からない写真はどうやら、上のサイトで勝

    康煕帝諸皇子の王府2
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    bitheiboo 2013/04/07
    これも労作。じっくり読ませて頂きます。
  • 康煕帝諸皇子の王府

    と言うワケで、前回のエントリ・康煕帝の諸皇子に続いて康煕帝の諸皇子のネタです。北京の観光名所・雍和宮は雍正帝が即位前に雍王府として使用されていた王府だと言うコトは自分も知っていたのですが…さて、他の王府って今どうなっているんだろう?っていう事に興味が出たので、ツラツラ《北京古建築地図 上》を見ながらチェックしました。で、更に《乾隆京城全図》iの目録を元にGoogleEarth版で確認を取りました。おおよそココかなぁ…って言う場所を比定したところもあります。ただ、他に確認しようもないので自信ないですねえ…。乾隆年間の北京に対してはいつもは力強い《日下旧聞考》も王府については書かれてません。雍正帝の潜龍邸であった雍和宮についても記述がありませんしねぇ。《乾隆京城全図》は乾隆15(1750)年ごろに成立したと言われていますので、この頃の事情を反映した内容になってます。なので、この年に没した輔国公

    康煕帝諸皇子の王府
    bitheiboo
    bitheiboo 2013/03/31
    これは力作!じっくり読ませて頂きます。
  • 康煕帝の諸皇子

    と言うワケで、毎日BSで放送されている《歩歩驚心(邦題:宮廷女官 若曦(ジャクギ))》をツラツラ見てます。軽くストーリーに触れると、現代の北京で彼氏に二股かけられた歴女・張暁が何故か清代・康煕朝の八阿哥・胤禩の側福晋・若蘭の妹としてタイムスリップ!八王府で生活する傍ら、康煕帝の皇子達に言い寄られちゃって困ってるウチに、選秀女に紛れて康煕帝のお茶汲み宮女となって康煕帝にも気に入られちゃってどうしよう!という、まぁ、一言で言うと辮髪乙女ゲードラマですね。セットも衣装も貧弱だなぁ…等と、結構馬鹿にしながら見てたんですが、続けて見てみると結構面白いので続きが楽しみなドラマ№1になってますね…。細かいところを上げていくとキリが無いわけですが、歴史との関わりは信長のシェフみたいなモンなので、それくらいにお気楽に構えて見るのが礼儀という感じはしますがw で、このドラマは宮廷の辮髪プリンス達に言い寄られる

    康煕帝の諸皇子
  • 特別展 北京故宮博物院200選

    と言うワケで特別展 北京故宮博物院200選に行ってきました。どうにもこうにもお蔵出しの清明上河図が人を呼ぶらしく、噂に違わぬ盛況ぶりでした。8:30に東博について列んで、見られたのが11:00なので思ったよりは早かったモノのやはり結構掛かりましたね…。でも、予想外だったのがそれ以降にも結構な時間掛かったことですね。17:00に設定したオフ会ギリギリまで掛かって見てしまいましたね…。あんまり期待せずに行ったんですが、清明上河図以外にも結構良いものが来てます。大物の絵巻物の展示が3巻もあったので図録にすると小さいのですが、全幅載っているのは素晴らしいですね。絵の部分だけではなく賛や跋の部分もカラーでガッツリ載ってますから、自分の様に鑑賞印とか鑑蔵印見るだけでニヤニヤ出来る人には勝って損なしです。と言うか、展示に行かなくても図録だけ買っても良いくらいですね。実に素晴らしい!と言うワケで以下備忘録

    特別展 北京故宮博物院200選
    bitheiboo
    bitheiboo 2012/01/23
    清明上河図はやはり素晴らしい。あと、自分も鑑賞印とか鑑蔵印見るだけでニヤニヤできますw 博物館や図書館で漢籍を見る時も蔵書印に目が行ってしまうたちです。
  • 草原の王朝 契丹─美しき3人のプリンセス─

    と言うワケで、珍しく静岡にも展示が来るというので、草原の王朝 契丹─美しき3人のプリンセス─を見に行ってきました。陳国公主墓の出土品は以前、今は無きエキスポランドの催し物会場に来た時に見に行ったりしましたが、今度は新発掘のトルキ山古墓と慶州の白塔(慶陵を鎮守する目的で建造された模様)を修築した際に中から見つかった文物が来てましたね。この三カ所の出土文物が中核を締める展示なので、美しき3人のプリンセスという副題がついてるみたいです。何のかんの耶律羽之墓から出土した文物もそこそこ多かったように感じたんですが、その辺は積極的にスルーしたみたいですね。 と言うワケで、展示の雑感です。 まず目を見張ったのが、やはり金銀器ですね。一般的に遊牧民族は金を好み、彫金に秀でていると言われるワケですが、間近に見ると流石に圧巻です。装身具よりも器の方が多かったのですが、やはり装身具の方が迫力ありましたね。 個

    草原の王朝 契丹─美しき3人のプリンセス─
    bitheiboo
    bitheiboo 2012/01/09
    宣和堂様のレポート。そそられる用語が頻出。「遼」寧省に住んでいるので契丹(遼)には以前から関心がある。
  • マンジュ史書を整理してみた

    と言うワケで、こないだの記事で《満洲実録》を扱ってから悶々としていた宣和堂です。うーん。実はこの辺が良くわからんのですよね…。 ご存じの通り、現在知られる満洲語の歴史書で一番有名なのは、内藤湖南が日露戦争終結の頃に瀋陽故宮で発見した、通称《満文老檔》です。 で、この際に見つかった他の書物が清朝歴代皇帝の実録である《清朝実録》 と、合戦絵図と言われる《満洲実録》です…。中身や成立過程については後回しにしましょう。 あと同じく名前が挙がるのが《五体清文鑑》ですね。元々は満洲語の辞典で元々の題名も《Han i araha manju gisun i buleku bithe(漢語題名《清文鑑》)》。これが増補を繰り返し、漢語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語をも収録した拡張版が《五体清文鑑》と言うコトのようです。検索したらこれに関してはさっくり画像がありました→《五体清文鑑》早稲田スゲー!むし

    マンジュ史書を整理してみた
  • 辮髪の変遷

    と、久しぶりに辮髪ネタです。以前、金銭鼠尾と言う記事で、辮髪の変遷について触れました。うーん、正直あそこで書かれたような具合に変遷してきたかというと、疑問は残ります。というか、事実とは違うのではないかという気がしています。 と、以下に参考資料をズラズラ上げてみましょう。 まず、前期とされる時期の絵画資料デス。 ダイ・チングルン…というかマンジュ・グルン建国当初の基資料である所の所謂《満洲実録》です。 いきなり生首で恐縮ですが、絵入りの史料にもかかわらず意外と辮髪を真正面から書いた絵が少ないです。基的に帽子を被るのが満洲旗人の嗜みですから、事実がどうあれ絵画に描かれるのは帽子なり兜を被った状態のモノが殆どですねぇ…。まあ、自分も手元に史料を持っているわけではないので他の確認が出来ていないので何とも言えませんが…。 絵はヌルハチに敵対したジュシェン(女真)の実力者・ニカンワイランの首級をヌ

    辮髪の変遷