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ブックマーク / tokyosigaku.jugem.jp (7)

  • 百年新報 (1914.01.08) | 東京史楽

    宣統帝独逸留学 「東京朝日新聞」1914/01/08 宣統帝(十一歳)と喀喇沁王女(十二歳)との間に婚約成立の噂あるが、喀喇沁王は皇帝十五歳に及ばば、独逸に留学を希望し、独逸宮廷は喜んで其教育を引受くべく、既に内相談を定めたりと。 【メモ】 愛新覚羅溥儀のドイツ留学計画に関する記事。 実現されていたらと思わないでもない。 寒気凛烈 「東京朝日新聞」1914/01/08 六日来、寒気激烈にして同夜風雪あり。七日朝の気温、零度以下十五度に下れり。 遼河結氷 「東京朝日新聞」1914/01/08 遼河結氷す。 【メモ】 満州の天候に関する記事、二題。 同地の寒気の厳しさが窺える。 是非クリックお願いします 表示中の記事 百年新報 (1914.01.08) (01/08) Amazonリンク カテゴリ お知らせ (9) 百年新報 (704) 鉄人の軌跡 (12) 続・江戸の話 (125) どしけん

    bitheiboo
    bitheiboo 2014/01/09
    「東京朝日新聞」1914/01/08の「宣統帝独逸留学」という記事が興味深い。もし実現していたら…。
  • 百年新報 (1913.11.06) | 東京史楽

    愈武力圧迫開始 「東京朝日新聞」1913/11/06 軍警の包囲捜索 民党部閉鎖命令 憲法問題発生以来、政府の国民、民憲両党に対する圧迫、日に激烈となり、国民党は到底解散せざるべからず、又、民憲党も成立する能はざる地位に陥りたりしが、四日夜、軍警三百余名は国民党部を包囲し、偶部に在りたる該党領袖 呉景濂等数十名を監視し、家宅捜索を行ひ、各種書類を押収したる上、該党部の閉鎖を命ぜり。 【メモ】 袁世凱の国民党禁圧に関する記事。 国民党は解散、所属議員の資格は剥奪となった。 有楽座の柔拳試合 「東京朝日新聞」1913/11/06 五日午後六時から有楽座に開催された、柔術対拳闘の試合は国際大競技と云ふ大看板と、折柄座前に据ゑられた花電車のお陰で可成の入場者があったが、由来拳闘は離れて戦はねばならず、之に対して柔道の方は組付かねば勝目がないから、柔拳試合は要するに不得意と不得意の戦ひ、河童

    bitheiboo
    bitheiboo 2013/11/09
    「有楽座の柔拳試合」が興味深い。異種格闘技戦の先駆け的存在。柔道とボクシングの噛み合わなさがうかがえ、現代日本の異種格闘技戦で言うところの「猪木・アリ状態」を彷彿とさせる。
  • 百年新報 (1913.03.22) | 東京史楽

    宋教仁狙撃 「東京朝日新聞」1912/03/22 上海停車場の椿事 兇漢は直ちに逃走 宋教仁氏は人も知れる如く、革命党員中錚々たる急先鋒にして、永く日に亡命し、具さに辛酸を嘗め、一昨秋の革命乱にて黄興氏等と相携へて各地に奔走し、事成るに及んで、白面の一亡命客は忽ち唐内閣に農林部総長の栄職を得、声望隆々たりしが、後、職を退き、五政党を統一して国民党を組織し、現に其理事たる人なり。 昨夜十二時、宋教仁は黄興と共に参議院議員の北京に行くを送りて滬寧線上海停車場に到り、改札口に佇み居る時、一人の支那壮漢、突如として宋教仁に接近し来り、ピストルを以て宋を狙撃する事四発、其一発は宋の腹部に命中し、宋は倒れたるが、之を見たる右の支那青年は機敏に逃走せり。宋教仁は直にレーンジ・ロードの鉄道病院に送られたるが重傷なりと云ふ。同行の黄興は危険を恐れ、停車場役員の自動車を借りて帰宅せり。 当地日旅宿なる豊陽

    bitheiboo
    bitheiboo 2013/03/31
    百年前の宋教仁暗殺事件の『東京朝日新聞』の記事。このブログでは、その後の続報についても採録している。当時の雰囲気が伺えて興味深い。
  • 百年新報 (1912.11.02) | 東京史楽

    勃軍大勝利 「東京朝日新聞」1912/11/02 参加兵数三十万 土軍退却醜態 土耳其(トルコ)スレシヤ州に於ける合戦は明かに勃牙利軍の勝利に帰したり。双方の軍は各約十五万宛より成り、二十九日相接触し、爾後合戦数回に及べり。戦線長き事、二十五喜米(キロメートル)を越え、交戦四十八時間以上に亙れり。勃牙利(ブルガリヤ)軍は迅雷の勢ひを以てルレプルガスよりブナルビサルに至る間に立ち並ぶ土耳其軍の陣地を攻撃せるが、土耳其軍亦頑強に之を抵抗せり。然れども結局、土軍の戦敗に帰し、皆狼狽、列を乱してセライ地方よりチョルルー方面に退却し、恰も雪崩の如き勢を呈せり。勃軍は猛烈に之を追撃し、多大の死傷を生ぜしめたり。猶、大砲、旗等多数、勃軍の手に落ち、又捕虜となれる土兵少からず。 タイムス巴爾幹論 倫敦(ロンドン)タイムスは塞爾比(セルビヤ)及び黒山がノヴィバサルを占領し、以て墺太利(オーストリヤ)のサロ

    bitheiboo
    bitheiboo 2012/11/03
    朝鮮京城野球団の記事が興味深い。「柳はスピードもあり、アウト・ドロップ等のカーヴに巧にして、スピットボールをも弄す。」。ちなみにスピットボールは当時はルール上認められていたらしい。
  • 百年新報 (1912.08.13) | 東京史楽

    清国の特派大使 「東京朝日新聞」1912/08/13 清国新政府は未だ承認せられず、故に今回の御大葬式に参列すべき特派大使も一個の袁世凱氏の施設として参列する由。其人名左の如し。 大使 袁克定 副使 胡惟徳 支那特派大使謝絶 支那政府より御大葬参列特派大使を派遣すべき旨、内交渉ありたるも、我外務省にては未だ支那政府を承認し居らず。之を諸外国大使と加ふる能はず。一外国紳士として待遇するの外なきを以て、特派の厚意は謝するも、其待遇に就ては、予め承知せられたしと通告し置きたれば、多分支那特派大使派遣は之れなかるべしと外務当局者は語れり。 【メモ】 袁世凱政権からの弔問使派遣に関する記事二題。 袁克定は袁世凱の長男であり、吉野作造が家庭教師となっている。 胡惟徳は同政権の外相に当たる人物である。 南満の豊作 「東京朝日新聞」1912/08/13 年南満一帯の農作は近年稀なる好景況にして、到る処、

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    bitheiboo 2012/08/13
    袁克定に趙爾巽。どちらも興味深い人物。趙爾巽は、クリスティ『奉天三十年』で非常に高く評価されている。
  • 百年新報 (1912.05.24) | 東京史楽

    張勲叛せん 「東京朝日新聞」1912/05/24 宿遷より至れる支那人側の報道に曰く、張勲は宗社党に合し、山東省滕県及嶧県於て軍兵二十営を集め、泰安に於て兵を挙ぐる準備中なり。 【メモ】 袁世凱の腹心である張勲が宣統帝復位を目指す宗社党と共に反旗を翻すという報道。 恐らくは事実誤認であろうが、この数年後の所謂「張勲復辟」を考えると興味深い。 幼帝と陳宝琛 北京 蒼鷹公 「東京朝日新聞」1912/05/24 でんでん太鼓に笙の笛、自動汽車よ、電車よと、手遊玩具に余念なかるべき、宝齢僅か七歳と云ふに、晨(あした)には九時より南書房に出臨して、午後四時に至る迄、読書習字に精励せらるる、宣統幼帝の可憐さは、さらでも涙脆き隆裕皇太后の涙の種なりとか。幼帝の師傅と頼まるる福建の名士、侍読学士陳宝琛にして、歯耳順を逾(こ)ゆること七歳、曽(かつ)ては十七歳にして進士に及第し、三百同庚最少年(陳氏印中の語

    bitheiboo
    bitheiboo 2012/05/24
    百年前(1912.05.24)の東京朝日新聞の記事。張勲の挙兵の噂に関する記事と、溥儀と帝師の陳宝琛についての記事。興味深い。
  • 東京史楽

    『守貞謾稿』女扮編。今回は髪形の名称の話が中心である。 「又元禄前後の髪名にとりあげ髪こたん曲四つ折ならず曲等諸書にあれども其形をしらずならず京坂今も放蕩を云江戸に云どうらく者と同じ 又元禄中吹鬢の名あり鬢を浮し出したる物也又繻子鬢と云もあり伽羅油を多く用ひて髪に光沢の名也」 とある。元禄頃の髪形の名称として、とりあげ髪等をあげるが、形状はわからないとする。ただし分かるものもあるようで、吹鬢は鬢を通常より大きく浮き出したもの、繻子鬢は伽羅油を多く用いて繻子(サテン)の様に髪を光沢あるようにしたものであったと言う。 「当時髪名には吾、引出し、とんぼわげ、小島田、釣髪、二重曲、茶せん曲、なげ島田、兵庫曲、とり上げ髪、下げ髪、引こき髪、後家髷、丸曲」とある。その他の髪形の名称として、引出し等々をあげる。この内、いくつかについては、後に解説が付されている。「蜻蛉曲(とんぼわげ)は舞妓結之形華なり

    bitheiboo
    bitheiboo 2012/05/12
    江戸・東京の歴史。特に、百年前の新聞記事を紹介する「百年新報」が出色。興味深い記事が多い。
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