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2014年11月29日のブックマーク (3件)

  • 順治前半のまとめ(ドルゴン期)

    と言うワケで前回に続いて論文とか《清史稿》とか《清三朝実録採要》あたりをザラッと読んでまとめたメモなのです。 ドルゴンの勢力拡大⇒ 翌順治元(1644)年4月、今度は正藍旗所属のホロホイiが正藍旗旗王である肅親王・ホーゲがクーデターを謀っていると告発。 ホロホイの供述 :両黄旗の実力者を味方に付けたホーゲはドルゴンが元々身体が弱く病がちなので、摂政の職務を全うできないと断定。 :豫親王・ドドも以前はホーゲ擁立に動かなかったのは間違いだったという発言をしていた…と、ホーゲが語った。 :ホーゲはホラホイらも自派に加わるように強要。 この事件により、ホーゲの推戴者とされた大臣達は処刑され、ホーゲ自体も多羅肅郡王に降格され、失脚している。 入関直前⇒ 同月、大明滅亡の報に接すると、ドルゴンは范文程ら漢人旗人の入関の献策を入れて李自成の大順を制圧するために出征。 この際、ドルゴン勢力圏である両白旗、

    順治前半のまとめ(ドルゴン期)
  • 清初ウラナラ閨閥

    前項で触れた四人の皇族の嫁さんがみんなウラナラ氏ブジャンタイiって人の娘さんだった話の続きです。サックリ種明かしをしてしまえば、このブジャンタイって人はフルン四国(海西女直)のウラの最後のベイレ(国主)・ブジャンタイ・ベイレ(Bujantai 布佔泰)のことです。 ブジャンタイは継位前の万暦19(1591)年にヌルハチがハダ、ウラ、ホルチン部など九ヶ国連合軍と戦って破ったグレの戦いで、ヌルハチの捕虜になっています。で、処刑されそうになったところを命乞いして助命して貰って、その後三年間抑留されています。その頃のウラのベイレはブジャンタイの兄・マンタイ・ベイレ(Mantai 滿泰)でしたから、この当時のブジャンタイは王弟みたいな立場ですね。ベイレに近しい親族ですから、戦後、兄であるマンタイ・ベイレからはブジャンタイの保釈要求も出された様です。しかし、ヌルハチが聞き入れなかったようですね。で、抑

    清初ウラナラ閨閥
    bitheiboo
    bitheiboo 2014/11/29
    この辺の話は本当に面白い。
  • 艾度禮その4

    と言うワケで、《愛新覚羅宗譜》を調べてきました。婚族が分かってスッキリしますね…。と言うワケで、以下にアイドゥリとともにアダリ、ショトについてもザザッと上げてみましょう。 第二子 碩託 三子 庚子年十一月初十日丑時生母嫡福晋李佳氏逹諸祜巴宴之女(中略)於崇徳八年癸未八月十八日處死年四十四歳(中略)嫡烏喇納喇氏布占泰貝勒之女(後略)i 第一子 喇喀 二子 天命十一年丙寅六月初七日午時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女(後略)ii 第二子 齋蘭布 無嗣 天聰六年壬申二月十六日酉時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女(後略)iii 第三子 岳賽布 五子 崇徳三年戊寅七月廿六日巳時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女(後略)iv ショトのアンバ・フジン(正)はウラナラ氏のブジャンタイの娘で、記録に残る三人の子供は皆この女性との間に出来た娘さんだったようですね。 第一子 阿逹理 一子 天命九年甲子九月十七日丑時

    艾度禮その4
    bitheiboo
    bitheiboo 2014/11/29
    皇族や有力旗人の閨閥・婚姻関係は清初史を考える上で欠かせない要素。