ANECDOTA 騎馬隊 VS 鉄砲隊 戦争の歴史においてもっとも重大な変革が、「騎馬から鉄砲へ」であることは疑いない。そう言われると、「長篠の戦い」を思い浮かべる人も多いのではなかろうか。「1575年、織田信長が3000丁の鉄砲を三列に並べ連続射撃を行い、無敵の武田騎馬軍団を打ち破った」ことは小中学生も知っている。「ヨーロッパでも行われていなかった画期的戦術」として称賛する人も多い。 もっとも、(源平~戦国の多くの戦と同様に)一般に知られる「長篠の戦い」像には、かなり後世の脚色が加わっているらしい。 まず旧戦術の代表とされる「武田騎馬軍団」だが、実像は映画やドラマとはかなり違うようだ。軍役帳を集計したところ、武田軍の騎馬武者は全体の7.4%とのこと。長篠の戦いでは総勢7000~1万とみられるから、騎馬は500~700程度である。それでもまとまって突撃すればさぞ壮観だろうが、そういう発想
地球人の歴史 13.火器の帝国 ギリシアの火と中国の雪 717年、ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルの城下にアラブ兵の大軍勢が姿を現した。都の南に広がる海も、無数の軍船によってうめつくされた。これは、ウマイヤ朝カリフのスライマーンが宿敵ビザンツを滅ぼすべく送り出した大遠征軍であった。 都の陸側は高さが最大17mにおよぶ三重の城壁が連なり、突破はほぼ不可能だったから、アラブ軍の攻勢は比較的弱い海側に向けられた。ところが、城壁にとりつこうとした船は一隻、また一隻と焼かれては沈み、攻撃は無惨な失敗に終わってしまう。 このときビザンツ艦隊が用いた秘密兵器が、「ギリシアの火」である。生石灰、松油、硫黄を混ぜた液体らしく、筒から噴射されると炎を発し、海面でも燃え広がり、水をかけても消えなかったという。決定的な役割を果たした最初の「火器」といってよい。 このしばらく後、中国・唐王朝のもとでは、激し
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