940年(天慶2年12月26日) 藤原純友が藤原純友の乱を起こす。 承平天慶の頃、瀬戸内海では海賊による被害が頻発していた。従七位下伊予掾の藤原純友は海賊の討伐に当たっていたが、承平6年(936年)頃には伊予国日振島を根拠に1000艘を組織する海賊の頭目となっていたとされる。 しかし最近の研究では、純友が鎮圧の任に当たった海賊と、乱を起こした純友らの武装勢力の性格が異なっていることが指摘されている。純友が武芸と説得によって鎮圧した海賊は朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人たちが、税収の既得権を主張して運京租税の奪取を図っていたものであった。それに対して純友らの武装勢力は、海賊鎮圧後も治安維持のために土着させられていた、武芸に巧みな中級官人層であり、彼らは親の世代の早世などによって保持する位階の上昇の機会を逸して京の貴族社会から脱落し、武功の勲功認定によって失地回復を