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文学についてに関するbounoplagiaのブックマーク (1)

  • 青野季吉 百万人のそして唯一人の文学

    小説と通俗小説の限界が、戦後いよいよ曖昧(あいまい)になつて来た。これは日に限つた現象ではないらしい。この現象は、いろいろな意味にとられるが、根的には、純小説をしつかり支(ささ)へてゐた個人主義、ないしは個人性が、それだけ崩(くづ)れてきたのだとみられる。そしてそれだけ、小説がジャーナリスチックになり、ジャーナリズムに征服されたのだとみられる。 昨年のことだが、わたしは妙な経験をした。一人の文学青年(実はもう青年ではないが)が原稿を見てくれと云つて玄関に置いていつた。しばらくしてその青年から手紙が来て、先日の原稿を友達にみせたら、まだこれは純小説で、通俗小説になつてゐないから駄目(だめ)だと批評された、自分もさう思ふ、自分はこれから大いに勉強して、りつぱな通俗小説をかくつもりだ、といふ意味のことが、大真面目(おほまじめ)にかいてあつた。わたくしは唖然(あぜん)とした。 純小説は、文学

    bounoplagia
    bounoplagia 2020/06/22
    「読者のために描かないといふことは、読者を無視してゐることでは絶対にない。自分の内部にある、自分と分ちがたい読者のためにかき、それ以外の読者のためにはかかないといふことに他ならない」
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