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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/ya022978 (8)

  • 2011-04-06 - 風信2011

    戦前は羽田書店*に入り、1945年みすず書房の設立に携わり、45年間編集責任者をつとめた小尾俊人は、戦後を体現する代表的編集者のひとりである。小尾の『出版と社会』(幻戯書房、2007年、654頁、税込9975円)は、関東大震災後から日中戦争頃までの出版世界を活写した好著である。このなかに、関東大震災後の吉野作造が登場する。( * 羽田書店は、松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』で著名な出版社であり、創業した羽田武嗣郎は元首相の羽田孜の父である。)それは「『明治文化全集』(日評論社)の出版」という章である。 1923年9月に起きた関東大震災の翌1924年に吉野作造が中心となり、石井研堂・尾佐竹猛・宮武外骨などとともに明治文化研究会をつくった。吉野は研究会を運営し機関誌の刊行に努めるとともに、折からの円ブームもあって、日評論社から依頼のあった『明治文化全集』の編集と刊行にまさに心血を注いだ。そ

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    bt-shouichi 2018/04/17
    関東大震災と吉野作造/憲兵隊の中では吉野や大山郁夫の殺害計画もあった/憲兵の機関誌に「大過夫妻のみにては、主義者の根絶思ひもよらず、博士阿久森始めとし、残党どもの根を絶やし」という歌が…
  • 「軍隊のお話(京極純一先生)」について - 風信2011

    古いファイルを整理していたら「軍隊のお話(京極純一先生)」という題の400字11枚ほどのワープロ文書が出て来た。1994年9月14日、東京広尾の先生のお宅に行った際に伺った話だが、とても貴重なものと思って、帰社後、その日のうちにワープロで打ったものである。 京極純一先生は、昭和19年9月に歩兵二等兵として高知市朝倉の兵営に入隊、陸軍豊橋第二予備士官学校で教育され、20年6月末に鹿児島県西海岸に配属。7月に習志野学校に派遣され、米軍の土上陸に備えた「砲とガスへの対策」を学び、鹿児島に戻ってきたところで敗戦を迎えた。兵隊の逃亡離脱の混乱の中、上官や兵隊の復員手続きを処理し、自らも9月中旬に復員。この1年間の経験を語ったものである。 末尾にはこうある。「軍隊の経験で官僚制組織は懲り懲りだと思った。日のような条件で一定の人口をもっているとある程度の官僚制が必要であるのは分かるが、それにしても軍

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    bt-shouichi 2016/10/12
    昭和19年9月から20年9月までの軍隊経験/「軍隊の経験で官僚制組織は懲り懲りだと思った。」「官僚制組織懲り懲りで、学者になったのだが、しかし大学もまた同じような側面をもった組織だった。」
  • クリスチャン(?)上杉慎吉 - 風信2011

    世田谷区上北沢の賀川豊彦記念松沢資料館で、昨年吉野作造記念館で開催された「吉野作造と賀川豊彦」の移動展「賀川豊彦と吉野作造」が6月27日まで開かれている。キリスト者としての二人は《貧しき者、弱き者のために》様々な社会事業に取り組んだ。二人の背景および接点を描き出したこの展示は、貧困が深化拡大しつつある今日こそ、多くの人に見ていただきたい。 この展示で驚いたこと。天皇主権論者となる上杉慎吉が東大学生基督教青年会の会員名簿(1902年)に、のちに民主義を訴える吉野作造とともに名を連ねていたのは目を引く。後に首相となる片山哲の回想によれば、上杉慎吉と吉野作造はよく連れ立って青年会の寄宿舎に来て、学生たちと語らっていたという。

    クリスチャン(?)上杉慎吉 - 風信2011
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    bt-shouichi 2015/12/27
    東大学生基督教青年会の会員名簿(1902年)に、吉野作造らの名前とともに、あの上杉慎吉の名も。「片山哲の回想によれば、上杉慎吉と吉野作造はよく連れ立って青年会の寄宿舎に来て、学生たちと語らっていたという。」
  • 高木八尺の評価: 斎藤眞と福田歓一の違い - 風信2011

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    bt-shouichi 2015/03/23
    「アメリカには精神なるものはないと言われていた時に、高木八尺先生は、そのアメリカに精神を求めた人である」対「ピルグリムファーザーズ時からアメリカ精神なるものがあり、それを高木八尺先生は求めた人である」
  • 坂本義和先生の思い出:『日本占領の研究』をめぐって - 風信2011

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    bt-shouichi 2014/10/07
    「2日に逝去された坂本義和先生。享年87」おお…/「できたとき、田中英夫先生からは「日本が占領された7年より、締切から刊行までの方が長かったですね」と、皮肉ではない、労りの言葉をいただいた」w
  • 坂本太郎の自伝『古代史の道:考証史学60年』:南原繁、矢内原忠雄、東京大学出版会 - 風信2011

    Y社のY氏より、歴史学者の坂太郎の自伝『古代史の道:考証史学60年』(読売新聞社、1980)[『坂太郎著作集第12巻 わが青春』収載]の一部分、戦後、東大史料編纂所が文学部から独立し、史料の再刊に至る箇所を送っていただく。 読んでみると、史料編纂所長に就任した坂太郎は、予算面・人事面で、時の総長南原繁の冷たい態度に遭遇。坂が社会科学研究所の宇野弘蔵(著名なマルクス経済学者)にぼやいたところ、宇野は「南原さんは歴史がわからんから同情がないのだよ」と事もなげに言われたという。 東大史料編纂所に対して南原が冷たかった頃、1951年3月、南原の発意で東京大学出版会が創設され営業を開始した。そして、昭和19年を最後として7年間出版不能となっていた同所の復活の狼煙である『大日史料』『大日古文書』『大日近世史料』『史料綜覧』について、その発売を東大出版会が担うこととなった。 その発売は19

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    bt-shouichi 2014/04/10
    「史料編纂所長に就任した坂本太郎は、予算面・人事面で、時の総長南原繁の冷たい態度に遭遇。」坂本が宇野弘蔵にぼやくと、宇野に「南原さんは歴史がわからんから同情がないのだよ」と言われたという
  • 表記の問題:京極純一先生 - 風信2011

    30年近く前、京極純一『日人と政治』を作る際、著者の楷書体の手書き原稿に「五穀豊饒」という表現があった。私は相当に悩み調べ、京極先生に「私が調べた辞典では、五穀に続くのは豊穣であって豊饒はありませんでしたが」とおうかがいをたてた。 京極純一先生は「私の小さいころの神社のお祭りの幟には、五穀豊饒とあり、偏であったのを記憶しているんだがねえ」とおっしゃいつつも、禾偏に変えて下さった。その時はそれで済んだが、以来、白川静の辞典にあたってもよく分からないまま、今日まで、私のうかがいは正しかったのかどうか、自信がないままである。 たまたま『日中文化交流』№815(2014.4.1)の巻頭の大野玄妙(法隆寺管主)「平和への祈り」を読んでいたら、「五穀の豊饒」という言葉が出てきた。う〜ん。 画一主義は避けて、五穀豊穣と五穀豊饒の二つがあったほうがいいんだろうな。 京極純一先生からは万年筆による楷書体

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    bt-shouichi 2014/04/10
    京極先生と「シナ事変」「日華事変」/「宣戦布告なしの戦闘であるがゆえに「日中戦争」と表記することは不可」
  • 『丸山眞男手帖』68(2014.1)、高木博義「「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」断想」を読んで - 風信2011

    『丸山眞男手帖』68(2014.1)に掲載された高木博義「「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」断想」を読んだ。丸山眞男「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」は『‘60』第14号(1989.3)に掲載された。『’60』は、日米安保の1960年に丸山の東大法学部での講義「東洋政治思想史」を聴いた学生有志のクラス会「60年の会」の会誌。高木は、1989年2月初めの寒い夜、吉祥寺東町にある丸山宅を訪れ、この原稿をいただいた方である。 この『‘60』は非売品であるが、私はこの「回想」は、確か石井和夫(東大出版会名誉顧問、『日政治思想史研究』の編集担当者および門倉弘(東大出版会元編集者、『丸山眞男講義録』編集担当者、1月15日逝去)を通して、そのコピーを同年1989年の初夏にもらって読んだ覚えがある。 この「回想」の最終段落は、1946年3月22日の自身の誕生日の日付を末尾に記した丸山「超国家主義の論理と

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    bt-shouichi 2014/02/13
    『丸山眞男手帖』68(2014.1)に掲載された高木博義「「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」断想」
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