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ブックマーク / sportiva.shueisha.co.jp (16)

  • 野村克也が仕掛けた「インハイの幻影」。イチローを封じた配球の真髄

    バッターの構えるバットに、狙ってボールを当てる奇跡──その昔、"大リーグボール1号"を投げた『巨人の星』の星飛雄馬は、その奇跡の根拠を"観察"に基づいた予測だと説明していた。バットを身体で隠して大リーグボール1号に対抗しようとしたライバル、花形満の左手の握りがほんのわずか緩んでいたことを見逃さず、大リーグボールではなく、わざとど真ん中に投げて見逃しのストライクを取ったときのあの快感......つまり、ど真ん中の棒球でもバッターの裏をかけばストライクが取れる、という野村克也が大事にしてきた"配球"の真髄は、突き詰めて考えればそういうことになる。 1995年の日シリーズでバッテリーに指示を与える野村克也監督(左から2人目) そんな野村が提唱したID野球の概念を、見事にフィールドで具現化してみせたのが古田敦也だった。1990年代、野村のもとで黄金期を迎えたヤクルトをキャッチャーとして支えた古田

    野村克也が仕掛けた「インハイの幻影」。イチローを封じた配球の真髄
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2020/02/16
    95年の日本シリーズでのイチロー封じ/詳細なデータ分析、それを踏まえての試合前の「インハイ」印象づけ作戦以外にも、試合中に古田は、イチローの右足の体重のかかり方のわずかな違いを見て、狙い球を探ったという
  • 「野村克也の言葉」は生きるヒントの宝庫。八重樫幸雄は懸命にメモした

    連載第9回(第8回はこちら>>) 【野村流「成功の条件」は全部で10個】 ――さぁ、八重樫さんお代わりのビールも来ました。ぜひ、現役時代の八重樫さんがメモをした「野村ノート」についての続きを聞かせてください! 八重樫 前回も話したけど、野村さんのミーティングでは最初の頃は全然野球の話をしないで、ひたすら人生論、人間論が続いたんだよね。たとえば、「人生における考え方」や、「成功の条件」についてとか。 ヤクルトの監督時代、チームを3度の日一に導いた野村克也 photo by Kyodo News――前回は「考え方の大敵はしゃべりすぎ、べすぎ」と伺いました。「成功の条件」とはどのようなものなのですか? 八重樫 (手元のルーズリーフをめくりながら)えーとね......、「成功の条件」は全部で10個。「(1)願望の持続、(2)信念(反復の中で信念が生まれる)、(3)良き理解者に恵まれる、(4)計

    「野村克也の言葉」は生きるヒントの宝庫。八重樫幸雄は懸命にメモした
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2019/12/20
    野村ノート/ミーティングでは最初の頃は野球の話はほとんどせず、人生論・人間論が続いたという。ノムさんの興味深い人生論が語られるが、元ネタは何だったんだろうか
  • 初の日本一直後に不穏な空気。八重樫幸雄が明かす広岡ヤクルトの不和 (4ページ目)

    ――あの場面で1時間19分も中断したのに、ヤクルト先発の松岡弘さんは集中力を途切れさせずに、その後も投げ続けたのは立派でしたよね。あの場面を松岡さんに尋ねたら、「ゆっくり休む時間をもらって、逆にリフレッシュできた」と話していました。 八重樫 この時、僕はケガをしていたからブルペンの様子は見ていないんだけど、あれは松岡さんだから、その後も投げることができたんだと思いますよ。もしも、安田(猛)さんだったら、たぶんダメ(笑)。松岡さんは最後まで集中力を切らさないタイプで、安田さんは「早く再開しろよ」って、イライラするタイプだから。 ――結局、この試合にヤクルトは勝って、チーム初の日一に輝きました。喜びも格別だったんじゃないですか? 八重樫 それはやっぱり、とっても嬉しかったですよ。でも、その翌日にはもうすでに、チームの中に「広岡監督は、もういいや」みたいな雰囲気が蔓延したんだよね......。

    初の日本一直後に不穏な空気。八重樫幸雄が明かす広岡ヤクルトの不和 (4ページ目)
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2019/12/20
    日本一になった後すぐにひと月猛練習…。日本一後の副収入を得る機会を奪われた選手たちの気持ちが萎え、「広岡監督は、もういいや」という雰囲気が蔓延、さらに翌シーズンの最下位にもつながったと
  • 八重樫幸雄に巨人レギュラーの可能性「トレードの話があったみたい」 (2ページ目)

    ――当時の巨人は、八重樫さんより5歳年上で、V9時代の二番手捕手だった吉田孝司さんがレギュラー捕手でしたよね。後のレギュラー捕手・山倉和博さんの入団前だったし、巨人に移籍すればレギュラーだったかもしれないですね。事前に知っていれば、「巨人入り」を望みましたか? 八重樫 事前に知っていても、「巨人に行って野球をやりたい」とは思わなかったと思うよ。広岡さんが断ったのは「大矢の後は八重樫だ」という思いがあったんだろうし、広岡さんが監督だった時にコーチになった森(昌彦/現・祇晶)さんは、僕に期待してくれていることは感じていたから。それに、僕らはヤクルトの一期生みたいなものでしょ? ――ヤクルトが球団経営にかかわるようになったのが1969年。その年のドラフト1位が八重樫さんでしたからね。 八重樫 そうそう。だから「他球団に行きたい」とは全然思わなかったし、途中から入るのってイヤだからね(笑)。 【一

    八重樫幸雄に巨人レギュラーの可能性「トレードの話があったみたい」 (2ページ目)
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2019/12/20
    広岡監督時代。ミーティングで、コーラに歯を入れて溶かす実演をみた…“「本当に本物の歯なのかな?」とは思ったけど、歯が溶けた瞬間は、意外とみんなで「オーッ」って歓声が上がったよね(笑)”
  • 八重樫幸雄は野球少年に伝えたい「オープンスタンスはマネちゃだめ」 (4ページ目)

    ――どうして真似をしてはいけないんですか? 八重樫 あのフォームを自分のものにするのに2年もかかったし、そこに行くまでには多くの時間と練習を費やしたわけだから。あっ、そうだ! ぜひ、書いておいてほしいことがあるんだけど......。 ――何ですか? 八重樫 よく、「八重樫があそこまで極端なオープンスタンスにしたのは太ったからだ」って言われるんだけど、そういう理由じゃないってこと。素人の指導者が、太っている選手に対して「お前は太っているから、少し開いて打ってみろ」って言っているのを聞いたことがあるけど、「何を言ってんだか」って思ったね。あのフォームを身につけるためにどれだけ時間がかかったと思っているんだよ。 ――いつも温厚な八重樫さんが、そこまで強い口調で言うのは初めて聞きました。当に腹に据えかねているんですね(笑)。 八重樫 目が悪くなったけど、コンタクトレンズが合わないから、メガネをか

    八重樫幸雄は野球少年に伝えたい「オープンスタンスはマネちゃだめ」 (4ページ目)
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2019/12/20
    例のオープンスタンスは太ったからではない!と力説。“メガネのフレームからボールが外れたときにすごく見づらいから、少しずつ微調整をして、ようやくあのフォームになったわけだから”
  • 八重樫幸雄は野球少年に伝えたい「オープンスタンスはマネちゃだめ」 (3ページ目)

    【「実はSMAPファンだったんだよ(笑)」】 ――野球に関して、「ずっと続けていたこと」は何かあったんですか? 八重樫 「常にバットを離さない」っていうことかな? 大杉(勝男)さんはいつも、枕の下にバットを置いて寝ていたんだけど、僕もずっとバットを布団の横に置いて眠っていたよ。 当時を振り返る八重樫氏 photo by Hasegawa Shoichi――キャンプや遠征先で、大杉さんと八重樫さんは同部屋だったんですよね。 八重樫 そう。なぜか、大杉さんと同部屋になることが多くてね。ああ見えて、大杉さんはすごく繊細な人だから、寝る時には物音ひとつ立てちゃいけない感じで、大杉さんの寝息が聞こえたら、ようやく僕も眠ることができた。でも、調子の悪いときには、気がつけば僕の頭の上で大杉さんがバットを振っていたことも、よくありましたよ。それは僕も同じで、「バットを手放す時は引退する時だ」と思っていたし

    八重樫幸雄は野球少年に伝えたい「オープンスタンスはマネちゃだめ」 (3ページ目)
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2019/12/20
    “中居くんが子どもたちに野球を教えている番組を見たんだよ。何気なく見ていたんだけど、言っていることがすべて正しくて、「彼は本当に野球が好きなんだな」って思って、それからSMAPを見る目が変わったんだよね”
  • 【F1】没後20年。中嶋悟が語る「セナの速さの秘密」

    5月特集 F1 セナから20年後の世界 中嶋悟インタビュー 後編 前編はこちら>> アイルトン・セナは1984年、24歳のときにトールマンからF1デビューを果たした。F1初年度から非凡な才能を示したセナは、翌シーズンには名門ロータスに移籍。その年のポルトガルGPで早くも初優勝をあげた。 ロータスには中嶋悟氏とコンビを組んだ87年シーズンまで所属し、その後、マクラーレン・ホンダに加入。88年、セナはアラン・プロストとともに全16戦中15勝という快挙を達成し、自身初の世界チャンピオンに輝いた。 セナは90年、91年にもマクラーレン・ホンダでタイトルを獲得。ウイリアムズに移籍した94年シーズンの第3戦サンマリノGPで事故死するまでに、通算勝利数41(歴代3位)、ポールポジション獲得回数65回(歴代2位)という記録を打ち立てている。 またセナは攻略がもっとも難しいサーキットと言われるモナコで通算6

    【F1】没後20年。中嶋悟が語る「セナの速さの秘密」
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2018/05/05
    「当時は、セナのようなトップクラスのドライバーでさえ肉体的な能力はまだまだ備わっていませんでした。それでも彼は、その卓越した技量で3回も世界チャンピオンになった。やっぱり彼はスーパーマンなんです。」
  • 【F1】あの事故から20年。中嶋悟が語る「セナの素顔」

    5月特集 F1 セナから20年後の世界 中嶋悟インタビュー 前編 80年代から90年代、日で隆盛を極めた驚異的なF1人気。それは、アイルトン・セナというひとりのドライバーの存在が大きな要因だったことは間違いない。あの頃、誰もがセナに注目し、熱狂していた。そして、そのスーパースターにアクシデントが起こった。 1994年5月1日、F1サンマリノGP決勝レースが行なわれていたイタリア、イモラサーキットの事故で、セナはこの世を去った......。 あれから20年――。F1というモータースポーツはどのように進化を遂げ、発展してきたのか。そして、あの頃から、何が変わって、何が変わらないままなのか。当時を知るドライバー、ジャーナリストらに、セナへの思い、F1への思いを語ってもらった。 第1弾は日人初のレギュラーF1ドライバー、中嶋悟氏。日レース界で圧倒的な成績を残し、1987年、34歳でようやくF

    【F1】あの事故から20年。中嶋悟が語る「セナの素顔」
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2018/05/05
    34歳ではあったが自信をもってF1に乗り込んだ中嶋のチームメイトは、レベルが違うセナだった/「僕がデビューシーズンにともに戦い、一度も勝てなかった男は、やっぱり特別な存在だったと証明されたのですから」
  • 川井一仁が明かす「忘れられないセナとのケンカ」

    5月特集 F1 セナから20年後の世界 川井一仁が語るセナpart2 part1はこちら>> アイルトン・セナが新興チームのトールマンからF1にデビューしたのは1984年。その後、ロータス・ルノーでの2シーズンを経て、87年にホンダがロータスへのエンジン供給を開始。 それが「セナとホンダ」という伝説の始まりとなる。一方、86年にホンダのモーターホーム運営スタッフとしてF1のパドックで働き始めた川井一仁氏は、同じく87年、中嶋悟のF1フル参戦と共にスタートしたフジテレビF1中継のレポーターへと転身。以来、日のF1ファンに「川井ちゃん」と親しみをこめて呼ばれ、最も近い場所でセナの戦いを見つめ続けた日人のひとりとなった。 そんな川井氏にとって、セナは唯一の「カリスマ」であると同時に、F1の「同級生」という意識もあったという。 94年4月、岡山で開催されたパシフィックGPでのセナ photo

    川井一仁が明かす「忘れられないセナとのケンカ」
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2018/05/05
    ほぼ同時期にF1の世界に飛び込んだという共通点/88年のオフにその年のモナコGPのことを訊いたらセナが激おこ。仲直りするために5万円するラジコン飛行機のエンジンを送るw
  • 川井一仁が語る「アイルトン・セナ、20年前のあの日......」

    5月特集 F1 セナから20年後の世界 川井一仁が語るセナpart1 サンマリノGP決勝レースの事故で、アイルトン・セナがこの世を去った1994年から20年。当時を知るドライバー、ジャーナリストらに、F1への思い、セナへの思いを語ってもらう第2弾は、セナがF1デビューした当初から現場で取材を続け、長年F1中継のピットレポーターを務めるF1ジャーナリスト川井一仁氏。 あの日、イモラの現場で何が起きたのか? そして、アイルトン・セナとは何だったのか?「川井ちゃん」が見た、カリスマの素顔とは――。 1984年にF1デビューを飾ったアイルトン・セナ photo by Studio M.m/AFLO 最近、セナの没後20年ということで、いろいろな人から取材を受ける。だけど、不思議なことに、あの日の記憶はすごく「断片的」なんだ......。もちろん、あの日に限らず、20年も経てば、忘れてしまったことは

    川井一仁が語る「アイルトン・セナ、20年前のあの日......」
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2018/05/05
    川井ちゃんはセナの事故の時にウィリアムズのピットでセナの弟の隣にいたと/この年のイモラの路面の状態は最悪で、それが事故の一因とみている
  • 【イップスの深層】解雇寸前の岩本勉をエースに改造した2人のコーチ

    連載第4回 イップスの深層~恐怖のイップスに抗い続けた男たち 証言者・岩勉(4) 連載第1回目から読む>>> (前回の記事はこちら) イップスを克服し、1996年には10勝をマークした岩勉氏 憧れの存在を前にして、目を輝かせるユニフォーム姿の野球少年たち。そんなまぶしい視線を浴びながら、キャッチボールを披露していた元日ハムファイターズの岩勉は内心、「やばい、来たな......」とつぶやいた。プロ野球を引退して10年以上が経っても、岩の「イップス」はいまだに再発する瞬間があるという。 「小学生相手の野球教室でも、いまだに(イップスが)来ますよ。でも、もうずるい大人なので、『おっちゃんコントロール悪いから、お前ら逃げろよ!』とごまかしながら投げる(笑)。自分で自分の心にゆとりを作らないといけないんです」 この境地までたどり着くには、気が遠くなるほどの長い時間が必要だった。 岩が投球

    【イップスの深層】解雇寸前の岩本勉をエースに改造した2人のコーチ
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2017/07/03
    岩本勉。壮絶だのぉ…そしていい指導者にめぐりあうことの大切さ
  • ついに才能開花。梶谷隆幸はDeNAの救世主となれるか?|プロ野球|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva

    高森勇旗●文 text by Takamori Yukiphoto by(C)YOKOHAMA DeNA BAYSTARS 2007年から昨年まで、ベイスターズでプレイした高森勇旗です。6年間という短いプロ生活ではありましたが、プロの厳しさを知り、多くのことを学びました。それと同時に、とんでもない技術を持った選手、身体能力を誇る選手を何人も見てきました。そこで今回、私と同期入団で球界トップクラスの身体能力を誇る梶谷隆幸について書きたいと思います。 8月に入り、飛躍的な活躍でチームを引っ張る梶谷隆幸 ここ数年、成績がふるわないベイスターズ。今シーズンはブランコなどの加入により大幅に打線が強化され、何とか3位争いを繰り広げているが、いまだ多くの借金を背負っている。だがそんな中で、大ブレイクの兆しを見せている選手がいる。それが今年7年目の内野手、梶谷隆幸だ。 私と梶谷は2006年の高校生ドラフト

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    bt-shouichi 2013/08/30
    「ノリさん(中村)から言われる何気ない一言が、本当にためになる。本当に、ひと言ひと言が心に刺さる」
  • スポアナ アスリートレポート

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    スポアナ アスリートレポート
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    bt-shouichi 2012/09/30
    マスパン可愛過ぎィ!/テベ・コンヒーロの魅力の三分の一は彼女が占めていた。あとは米俵とコウメ太夫
  • 【柔道】日本柔道、ロンドン五輪『惨敗』の真相

    100kg超級出場の上川大樹が2回戦で敗れ、男子柔道は五輪で初めて金メダルなしという結果に終わった ロンドン五輪で、金メダルが松薫(女子57キロ級)の1個にとどまり、男子は史上初めて金メダル「ゼロ」という惨敗を喫した日柔道。柔道の母国としての威信を失った最大の要因は、強化体制の不備および世界の柔道への対策が不徹底だった点に尽きるだろう。 北京五輪後、男子の監督には篠原信一氏が、女子の監督には園田隆二氏が就任した。それまでの代表コーチ陣は、ふたつないしひとつの階級を担当する形をとっていたが、ふたりの監督就任を機に担当制を廃止し、コーチの数も5人から3人に減らした。 北京以前は、担当コーチと選手は二人三脚で該当階級の海外選手を研究し、対策を練っていた。ところが現体制ではコーチ陣が全階級を担当するため、個別の対策がどうしても不十分となってしまう。また、ひたすら走り込みと、乱取りの数をこなすよ

    【柔道】日本柔道、ロンドン五輪『惨敗』の真相
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2012/08/18
    柔道じゃなくJUDOだから…などという恥ずかしい言い訳はもうできないだろう。ここに書かれてるように、どの国も組んで投げてきたんだから、対応できないとしたらそれはただの実力
  • 【プロ野球】中村紀洋、戦力外から掴んだ8年ぶりの球宴に懸ける思い

    ファン投票によって、8年ぶりのオールスター出場を果たした中村紀洋 2004年以来、8年ぶり8度目のオールスター出場を果たした中村紀洋(横浜DeNA)。ファン投票での選出は、実に10年ぶりのことだった。 「オールスターはもう難しいだろうと思っていましたけど、元気な姿を見せられる機会をいただきました。ファン投票で入れていただいたみなさんに、豪快なスイングを見てもらいたいです」 オールスター明けの7月24日に39歳となる男の言葉に実感がこもる。振り返れば、オールスター出場の足跡が、中村の激動の野球人生を伝えている。 4年連続オールスター出場(99~02年)の時期は、近鉄『いてまえ打線』の顔として球界を代表する打者にまで上り詰めた絶頂期。00年には塁打、打点の二冠に輝き、01年も打点王を獲得し、リーグ制覇に貢献。年俸も5億円を超えた。しかし02年オフ、メジャー挑戦を表明し、ニューヨーク・メッツと

    【プロ野球】中村紀洋、戦力外から掴んだ8年ぶりの球宴に懸ける思い
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2012/07/20
    8年ぶりか。あんまりオールスターには興味なかったけど、ノリさん目当てにみるぜ
  • 【小田嶋隆】興奮か冷静か?応援と競技を楽しむ姿勢の狭間にある「ファン」の観戦態度|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|小田嶋隆 「二次観戦者の帰還

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    【小田嶋隆】興奮か冷静か?応援と競技を楽しむ姿勢の狭間にある「ファン」の観戦態度|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|小田嶋隆 「二次観戦者の帰還
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2011/12/20
    「呼び出す&待たせる&無理やり話をさせる」「この老芸人のウケ狙いの問いかけを、後輩芸人が全力でフォロー」さんま御殿的な場を用意されないと最早無力だという自覚がないんだろう/この文のオチも同じくらい寒い
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