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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (5)

  • これはひどいウィキペディア「室町時代」 - 我が九条

    今回取り上げるのは「室町時代」の項目。今回は琉球との関係を取り上げたい。問題の箇所はここ。 1414年には将軍足利義持が琉球王の献上物に対する返礼の書状を贈っており、1441年には足利義教が琉球を薩摩国の島津氏の属国とする事を認めており、さらに幕府には琉球奉行が設置されて貿易の統制を行おうとしており、室町時代には琉球が「日」として認識されていた。 2004年8月にアップデートされたもの。「室町時代には琉球が「日」として認識」という記述は、私は同意しないが、そういう学説もあるのでさておく。というよりもその方が通説だろう。問題は足利義教の嘉吉附庸説を事実と解釈しているところ。それならば源為朝の琉球伝説も史実として書いて欲しいw 琉球奉行の設置と貿易の統制も「琉球が「日」として認識されていた」こととどう関係あるのか、不明。室町幕府における「奉行」の意味合いをもう少し考えた方がいい。あと『蔭

    これはひどいウィキペディア「室町時代」 - 我が九条
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2012/07/30
    「義教は北海道から琉球までを統合したスーパーマンだったのだw」
  • 大河ドラマ - 我が九条

    『平清盛』、もちろん見ている。自分の専攻に近い時代の大河は見ておかないと同業者の話題に付いて行けない。もちろん大河の悪口をいうことw 『義経』は見ていなかった。同業者の話題に付いて行くことよりもタイガースの試合の方が大事だったから。 『北条時宗』は見ていた。このときは大河の悪口に付いて行けた。 今年も悪口が一杯出てくるだろう。その時に「そうそう、私もそう思っていました」くらいの相づちは打てるようにしておかないと・・・ あと『平清盛』で困ることを一つ。武士は王家の番犬、血塗られた汚れた存在、のような描き方は・・・

    大河ドラマ - 我が九条
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2012/01/12
    「あと『平清盛』で困ることを一つ。武士は王家の番犬、血塗られた汚れた存在、のような描き方は・・」階級闘争のドラマですから、アンシャンレジームの下での虐げられっぷりは重要(違
  • 大河ドラマ『平清盛』のツッコミ所 - 我が九条

    「王家がどう」とか「色彩がどう」とかツッコミがあるが、一番のツッコミ所はやはり吹石一恵演じる舞子が院御所で殺されたところだろう。ケガレを極度に忌む彼等が御所内で血を流させるわけはない。吹石一恵が忙しくて初回しか出演できないのであれば、御所の外で殺される、とかやりようはあったはずだ。 かつて『北条時宗』で近衛基平が御所内で自害するシーンがあり、それについて郷和人氏は次のように述べている。 平安末にラーメンが存在したか否か。これは知っている・知らないの問題にすぎない。清盛が白河上皇の落胤か否か。これは学説の分かれるところですので、どちらを採ることも可能です。でも何十年も研鑽を積んでいるはずなのに、天皇や朝廷の質を理解していないとなれば、これは中世史研究者としてのこの上ない恥辱です。関白に御所で切腹させるとは、考証役の私はダメな研究者だと、満天下に広言しているのに等しい。ですから、こうした根

    大河ドラマ『平清盛』のツッコミ所 - 我が九条
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2012/01/12
    「ケガレを極度に忌む彼等が御所内で血を流させるわけはない」やっぱこういうドラマの考証の先生は「やらかした」人扱いなのかな/今年も、そのテーマをやるのにわざわざ日本史を舞台にしなくてもっていう感じだな
  • 北朝の天皇が抹殺されるまで - 我が九条

    明治政府はそのイデオロギー主柱が水戸学であったことが、北朝ではなく、南朝が正統であると考えられた根にあると思われる。江戸幕府の歴史意識では、後醍醐で王朝は終了して武家の世になっているのである。王朝交代の思想に基づけば、南朝正統の方が何かと好都合であった。松平定信の大政委任論から始まって、幕末の政治情勢の中で攘夷を決行できない「征夷大将軍」に対する不満が高まり、「尊王攘夷」から「尊王討幕」へと政治動向が変わり、明治維新に至る。明治維新では水戸学の影響やら、国学、特に大国学(おおくにがく=大国隆正の学派であって、「だいこくがく」ではない。念のため)を中心とする国学がヘゲモニーを一時的に握る。いわゆる祭政一致の段階で、神祇官が太政官の上に置かれた時代である。神武の昔にもどろうとしたらしい。やがて文明開化の中で彼等は非主流派に転落して行くのだが、彼等の思想は民間右翼団体やその影響を受けた地方の保

    北朝の天皇が抹殺されるまで - 我が九条
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2011/06/12
    「江戸幕府の歴史意識では、後醍醐で王朝は終了して武家の世になっているのである」
  • 天皇の代数 - 我が九条

    天皇の代数は難しい。125代目と言えば簡単だが、昔からいろいろな数え方が存在する。 南北朝時代には神功皇后を歴代に数えていた。逆に弘文天皇と淳仁天皇と仲恭天皇は歴代に数えない。従って後醍醐天皇は何代目か、と言えば、現代では96代目となるだろうが、南北朝時代には94代目である。 肝心の南北朝時代の天皇だが、現代の、特に自分が発起人を務める教科書を決算委員会の場で採択するように圧力をかける政治家は次の様にしか考えないだろう。 後醍醐−後村上−長慶−後亀山 しかし当たり前だが、今上天皇は後亀山の子孫ではない。室町時代には自分が擁立する天皇の先祖を持ち上げ、自分が擁立する天皇に反逆し、天皇を僭称した不届き者は天皇とは扱わなかった。室町時代の天皇の代数は次のように意識されていた。 後醍醐−光厳−後醍醐(重祚)−光明−崇光−後光厳−後円融−後小松−称光−後花園 ちなみに今上天皇は崇光−栄仁親王−貞成親

    天皇の代数 - 我が九条
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2011/06/09
    南朝が正統だと言って論争を〆たのは明治天皇だったっけか。手前の先祖の正統性を否定するとは倒錯してるな/大覚寺統‐南朝を正統とするのは、北朝を祖とする天皇の権威を相対化する武士のイデオロギーと聞いたが…
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