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歴史と北海道に関するbuhikunのブックマーク (7)

  • 大器晩成の意味

    増田で『老子』もしくは『魏書』を引いている投稿があったので、久しぶりに『老子』の原文に触れた。 「大器晩成」っていつも疑問で、漢代以降の「大人物(あるいは大事業)は時間をかけて完成するのだ」的な解釈でもいいんだけどさ。 最近、古い文字資料が出てきて「大器免成」と書かれてて、「大器」は成立することを免れる、だから成立しないのだ、なんて逆の解釈することもある。 この新解釈は耳目を引きがちだが、それゆえに、取ってつけたような印象を受ける。 老子の原文、「大器晩成」がある辺りはおんなじような文構成になっている。 明道若昧。進道若退。夷道若纇。上徳若谷。大白若辱。廣徳若不足。建徳若偸。質眞若渝。大方無隅。大器晩成。大音希聲。大象無形。 明るい道は暗きがごとし。 道を進んでいるようで退いている。 高い徳は谷のように深く。 大いに白いものは辱(よご)れているように見え、 広い徳は、足りていないように見え

    大器晩成の意味
    buhikun
    buhikun 2017/06/30
    「大樹」も「晩成」も北海道十勝の地名←違います(苦笑)
  • 「日本昔話は日本の話だった!」~北海道民からみた「内地」の風景

    オッカム @oxomckoe 僕が初めて内地に上陸したのは、高校の修学旅行で青函トンネルで青森を通った時。衝撃だった。日昔話で見たような風景。こんなに違うのかと思った。その後、さらに東京や京都に行ったのだけれど、僕は「青森と京都の違いは誤差だな。どっちも完全に日だな」と思った。これが異邦人の視点なんだな。 2016-01-08 01:45:32 オッカム @oxomckoe 僕は高校時代、古文・漢文が最強得意科目でセンター試験模試も試験でも失点してことがない。国文科に進学しようと思ってた。『伊勢物語』読んで恍惚として。でもどうも自分は古典文学を根的に分かってなかったと修学旅行で気づいたんだな。季節とか花とか。僕の人生にはいつも文化が立ちはだかる。 2016-01-08 01:54:34

    「日本昔話は日本の話だった!」~北海道民からみた「内地」の風景
    buhikun
    buhikun 2016/01/11
    北海道内でも5大都市とそれ以外の差がでかい。根釧台地の寄る辺のなさは泣けた。
  • NHK|ニッポンのポ >> 俗語辞典 >> 北を目指して横歩き「カニ族」

    メニューを開閉する 大きなリュックで横歩き 「カニ族」。日帰りバスツアーでカニべ放題に行く人たち、というわけではありません。でも「カニ」はあの、海や川にいるカニ。「カニ族」とはいったい何なのか…? これは1960年代後半から70年代末に流行した言葉で、現代で言えば「バックパッカー」でしょうか。大きなリュックサックを背中に担いで、旅をする若者たちを指した言葉なのです。 当時、お金はないけど時間はあるという若者が多かったため、低予算で旅行に出掛けることを趣味としている人が大勢いました。そのような若者を「カニ族」と言ったわけですが、では、なぜ「カニ」なのでしょうか。自身も「カニ族」だったという作家の立松和平氏は自著のなかで次のように解説しています。 学生時代、私はカニ族であった。横に広い大きなザックをかついでいるので、列車の通路などはまっすぐに通れない。身体を横にしてカニ歩きしなければならなか

    NHK|ニッポンのポ >> 俗語辞典 >> 北を目指して横歩き「カニ族」
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    buhikun 2015/07/21
    b:id:entry:259959851 関連。「キスリング」「旧型客車列車」が何だったのかも目で見て分かる。
  • 俺の母がこんなに可愛いわけがない - 紺色のひと

    先日、祖父母の家に遊びに行ったとき、祖父が昔撮った写真をそっくりもらってきました。写っているのはまだ若い祖父母、そして残りのほとんどがふたりの娘たち、つまり僕の母や叔母を写したものでした。50年前の母の赤ちゃん時代があまりに可愛かったので、人の許可の元ご紹介します。 母は昭和32年、札幌市で生まれました。祖父母にとっては初めての子供でした。まだちんちくりんな様子が見て取れます。twitterで教えてもらったところ、背後の花はジャーマンアイリス(アヤメの品種)かな、とのこと。 恐らく、母、一歳。実の母のことをこう言うのもなんですが、うわあ、めちゃめちゃ可愛い! 祖母も楽しそうです。恐らく、カメラを向けている祖父も笑っているのだろうなと思います。 あ、写真に日付が残っていないので、正確な年齢が不明なのはご容赦ください。 同じ頃、冬。こんな色の起き上がり小法師みたいなの、ありましたよね。半纏と

    俺の母がこんなに可愛いわけがない - 紺色のひと
    buhikun
    buhikun 2011/02/01
    そもそも1950年代のカラー写真が相当に高価で貴重すぐる。白黒写真に着色いう技法があってだなあ(ry/札幌市電や定鉄の写真マダー\(-_-;) オイオイ
  • 2010-12-13

    1 「採決直前!都青少年育成条例改​正案・最後の主張」http://live.nicovideo.jp/watch/lv34395435 を見て、東京都治安対策部による条例範囲拡大から、「北海道綴方教育連盟事件」を連想した。 http://www.zenshinza.com/stage_guide/morgue/juko/goku.htm 綴方教育事件 (つづりかたきょういくじけん) 北海道綴方教育連盟事件 (ほっかいどうつづりかたきょういくれんめいじけん) 生活綴方=子供たちに生活の事実を綴らせて(書かせて)、ものの見かた・考え方・感じ方・生き方を育て、文章力を高める教育方法。戦後は、作文教育とも言っている。 1940年(昭和15)東北から始まった生活綴方運動に対する弾圧は、「綴方の教育にことよせて、貧困と矛盾に目覚めさせ、子供たちを革命戦士に育てるための教育・・・」とデッチ上げの治安

    2010-12-13
    buhikun
    buhikun 2010/12/13
    id:zakinco氏、1000万有権者の1/50言うことは20万筆ですけえ、そう容易じゃないんですよ、実務的には(泣
  • 朱鞠内湖―その2― - 日刊イオ

    朱鞠内湖の取材で最も重要な場所であり、最も印象に残った場所は、最後に訪れた遺骨発掘現場である。 笹の墓標展示館から車ですぐのところの小高い丘の上にあがると、こじんまりと広がる共同墓地(写真1)がある。その奥に、朝鮮風の丸く土をもった墓があった。その前には「名雨 線鉄道工事・雨龍ダム工事犠牲者之標」と書かれた墓標が立てられている(写真2)。 強制労働で犠牲となった朝鮮人、日人の遺体は、光顕寺(笹の墓標展示館)に一晩置かれたあと、ここに運ばれて埋められた。お墓の横に立てられた説明版には次のように書かれ ている。 ――十五年戦争下に行われた名雨線鉄道と雨竜ダム建設工事では、朝鮮人強制連行とタコ部屋労働で二〇〇人をこえる生命が失われました。そのうちの約六割の人々がこの共同墓地とその周辺に埋葬され、戦後長くその犠牲は省みられることがありませんでした。一九八〇年から四年連続して、朱鞠内住民と空知民衆

    朱鞠内湖―その2― - 日刊イオ
    buhikun
    buhikun 2010/07/23
    名雨線はのちの深名線(廃止)ですね/北海道の奥地の鉄道の多くが、強制労働、タコ部屋労働の成果物と知っていたら、笑って乗れんかったorz
  • 朱鞠内湖―その1― - 日刊イオ

    今日の内容は、7月15日のブログ「笹の墓標」の続きです。 朱鞠内湖の横にある「笹の墓標展示館」を見学したあと、歩いて朱鞠内湖へ行った。普通は歩いて20分ほどだが、道を間違えて50分ほどかかってしまった。記録的な炎天下のなか死にそうになってしまった。 湖に行く途中、道の傍らに「願いの像」(写真)というブロンズ像が建っている。 強制労働の実態を調査し犠牲者の遺骨を発掘して遺族に返還する活動を進めいてきた空知民衆史講座の人々が中心になって建てたものだ。1991年に建立された。像の碑文の一部を紹介する。 「戦争の嵐の中で、山間の地にいのちを失った多くの「タコ」と呼ばれた労働者の慟哭と、他国へ強制連行された人々のいかりと悲しみにふれた私たちは、この運動をとおして、二度と再びこのような犠牲を強いることがあってはならないことを学びました。/ここに、犠牲となった人々、遺族、そしていのちの尊さにめざめたすべ

    朱鞠内湖―その1― - 日刊イオ
    buhikun
    buhikun 2010/07/23
    朱鞠内湖には行っていないが、12月に朱鞠内に行ったことがある@深名線/暖冬で、氷点下10度台だったorz
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