日本の植民地支配の受動性を印象づけ、主権蹂躙の実態をはぐらかしたNHKスペシャル~「韓国併合への道」を視て~(1) 4月18日、NHKスペシャルでシリーズ「日本と朝鮮半島」の第1回として「韓国併合への道」が放送された。伊藤博文と彼を射殺したアン・ジュングン(安重根)の軌跡を辿りながら、1910年の韓国併合に至る歴史をロシア、アメリカ、英国など当時の国際列強の動きと絡めながら明らかにするというのが番組制作者のねらいだった。しかし、番組を視終えた私の感想は、日本による朝鮮の植民地支配の受動性を印象づけ、核心的な史実である主権蹂躙の実態がはぐらかされたということだった。 私がいう受動性の印象づけは次の2面からなされた。一つは朝鮮のそれなりの「自治」を認めようとした伊藤博文の融和的統治方針を朝鮮民衆が聞き入れず、過激なナショナリズムに走ったため、伊藤や日本政府は「併合」という手段を選ぶほかなかった
秋山真之の出家志願を弱音と言ってのける好戦趣向 『坂の上の雲』は黄海海戦で作戦参謀役を務めた主人公・秋山真之を次のように描いている。 「・・・・真之はこの追跡時間中、もはや人間の力ではどうにもならぬ状況下で、かれはかつてやったことのない精神の作業をせざるをえなかった。神仏に祈った。秋山真之というこの天才の精神をその晩年において常軌外の世界に凝固させてしまったのは、この日露戦争における精神体験によるものであった。かれは、渾身の精気をこめて天佑の到来を祈った。」(第4分冊、51ページ) つまり、黄海海戦で凄惨な体験を味わった真之はその体験を戦争という外界に向けるのではなく、内面の精神体験に閉じ込めたのである。もっとも、上の引用文の末尾に記されているように、真之は日露戦争が終わったあと、出家を口にする。原作はこの点にも言及している。 「『作戦ほどおそろしいものはない』と真之はつねにいった。この人
連載の第2回目では、司馬遼太郎作『坂の上の雲』が主人公(秋山兄弟)らの心象風景に焦点を当てることによって、日清、日露戦争をめぐる歴史の核心部分の認識をいかにはぐらかしているかを論じる予定だったが、その前に原作は戦場をどのように描写したかを作品に即して検討しておきたい。これが歴史小説としての『坂の上の雲』を評価する上での必須の土台になると思うからである。 『坂の上の雲』を「明治の青春群像物語」に改編するNHK NHKは来る11月29日から始まるスペシャルドラマ『坂の上の雲』の放送を前に目下、出演する人気俳優を広告塔にして大々的な番組キャンペーンを行っている。その際、NHKはドラマ化の企画意図を次のように説明している。 「『坂の上の雲』は、国民ひとりひとりが少年のような希望をもって国の近代化に取り組み、そして存亡をかけて日露戦争を戦った『少年の国・明治』の物語です。そこには、今の日本と同じよう
問題を軍事的実利に還元し、思想を封印するレトリック~『坂の上の雲』は軍国日本をいかに美化したか(第1回)~ 原作者の遺志はそれほど軽いのか? NHKが総力をあげて手掛けてきたスペシャルドラマ『坂の上の雲』の放送が11月29日から始まる。それを控え、歴史学関係者やNHKのあり方を問い続けている市民団体の間から批判の声が上がっている。そこで、以下、数回にわたって、『坂の上の雲』は明治期の軍国日本をどのような手法でいかに美化したかを検討してみたい。 上記の歴史学関係者や市民団体の批判の理由は次の2点である。 (1)この作品をテレビとか映画とか、視覚的なものに翻訳されると軍国主義を鼓吹したかのように誤解されるとしてテレビ・ドラマ化を拒み続けた原作者・司馬遼太郎の生前の意思に反する。 (2)原作の中には歴史の事実に反して、日清・日露戦争の侵略性を美化する内容が含まれ、ドラマとはいえ、これを放送するの
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