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2019年12月13日のブックマーク (6件)

  • 世界は、グローバル・ハイクオリティでノーコミュニティ層と、ローカル・ロークオリティでコミュニティ層に分断される──日本、アジア、そして21世紀

    どういうことかと言うと、インターネットが国家間の境界線をますます消滅させていくと、コンテンツやモノ、サービスは国内産か国外産かの意識もされず、世界でもっともクオリティの高いものが選ばれていきます。そして、世界から選ばれるものは、グローバルがマーケットとなるわけですから、圧倒的な資の厚みができる。簡単に言うとクオリティに対してもっともっとお金がかけられるようになるわけです。ローカル内では、もっともクオリティが高くても、世界で通用しないクオリティのものは、ローカルからしかお金が集まりません。そのため、クオリティにかけられるお金が相対的に少なくなり、グローバルに選ばれたハイクオリティとの間に質的な差が生まれていき、ますます選ばれなくなっていくのです。 インターネットは一方で、コミュニティの構築と参加を容易にし、そして規模も大きくしました。コミュニティが大きくなったために、自分が入っているコミュ

    世界は、グローバル・ハイクオリティでノーコミュニティ層と、ローカル・ロークオリティでコミュニティ層に分断される──日本、アジア、そして21世紀
  • J1観客数大幅増加、史上初めて“平均2万人”の大台超え。総観客数も最多

    順位 チーム名 勝点 勝 引 敗 1 Machida Zelvia 32 10 2 3 2 Vissel Kobe 29 9 2 4 3 Kashima Antlers 29 9 2 4 4 Gamba Osaka 25 7 4 4 5 Nagoya Grampus Eight 25 8 1 6 6 Urawa Red Diamonds 24 7 3 5 7 Cerezo Osaka 23 6 5 4 8 FC Tokyo 23 6 5 4 9 Sanfrecce Hiroshima 22 5 7 2 10 Kashiwa Reysol 21 5 6 3 11 Avispa Fukuoka 19 4 7 4 12 Tokyo Verdy 18 3 9 3 13 Yokohama F.Marinos 17 4 5 4 14 Kawasaki Frontale 16 4 4 7 15 Albi

    J1観客数大幅増加、史上初めて“平均2万人”の大台超え。総観客数も最多
    candidus
    candidus 2019/12/13
    広島は、やっぱしCarp、Carpなんだろう
  • オノ・ヨーコ少女時代〜大財閥のお嬢様が受けた英才教育

    1933年2月18日AM8:30、安田財閥が所有する東京の大きな屋敷で彼女は雪の降る朝に生まれたという。 小野英輔・磯子の間に生まれた三人の姉弟の長女だった。 父親は日興業銀行総裁を務めた小野英二郎の子であり、ピアニストから銀行員に転じ、彼女が生まれた時は横浜正金銀行のサンフランシスコ支店に勤務していた。 母親の祖父は安田財閥の創始者・安田善次郎だった。 安田財閥といえば、金融部門で他の財閥の追随を許さないほど潤沢な金融資をもつ日四大財閥の一つ。 つまり彼女は、安田財閥直系のお嬢様だった。 「魚座生まれの私に、両親は“海の子”を意味する“洋子”という名前をつけました。」 幼児期に父親が遠く離れた存在だった上、母性よりも義務感に満ち溢れた母親は、お行儀よく躾けられた娘(彼女)に対してめったに感情を表したりスキンシップをはかろうとしなかった。 母親は家事に加えて、娘のオムツ替えや授乳など

    オノ・ヨーコ少女時代〜大財閥のお嬢様が受けた英才教育
  • 伝説のロック番組『ヤング・ミュージック・ショー』に残されたデヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」

    デヴィッド・ボウイの来日コンサートが1978年12月12日、東京の渋谷区神南にあるNHKホールで行われた。 その日は12月6日の大阪厚生年金会館から始まった日ツアーにおける最終日であるだけでなく、その年の3月29日にアメリカのサンディエゴを皮切りに始まり、北米から欧州、豪州をまわって9か月にも及んだワールド・ツアーの最終公演でもあった。 70年代のなかばにアメリカに渡ってからコカイン中毒になったボウイは、自ら再起を図ってベルリンに移住すると、1977年にアルバム『ロウ “Low”』と、それに続く『英雄夢語り (ヒーローズ) “Heroes”』を発表して復活した。 ●商品の購入はこちらから ●商品の購入はこちらから そしてワールド・ツアー「 ロウ / ヒーローズ・ツアー(Low and Heroes Tour)」によって、ボウイは完全復活を印象づけるだけでなく、吹っ切れたようにシンプルで力

    伝説のロック番組『ヤング・ミュージック・ショー』に残されたデヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」
  • 海外のパフォーマンスを取り入れて昇華させた忌野清志郎

    1978年にアコースティックからエレクトリックへと路線を変更したRCサクセションは、忌野清志郎のグラムロックを彷彿とさせる派手な化粧と、エネギッシュでソウルフルなパフォーマンスが注目を集めてライブの動員が急速に増えていった。 1981年には武道館公演を成功させるなどして、押しも押されもせぬ日のロックバンドへと登りつめた。 そんなRCサクセションのステージでは様々なところから、海外のミュージシャンからの影響を垣間見ることができる。 例えば観客に呼びかける有名なフレーズ、「愛しあってるかい?」は清志郎が敬愛するR&Bシンガーのオーティス・レディングが、ショーの合間に観客に呼びかけた「We all love each other, right ?」の日語字幕からきている。 伝説のモンタレー・ポップ・フェスティバルの映画が上映された時、清志郎はフィルムでそれを観て完全にノックアウトされたのだ。

    海外のパフォーマンスを取り入れて昇華させた忌野清志郎
  • KISSの武道館公演をNHKテレビの『ヤング・ミュージック・ショー』で見て感激した忌野清志郎の決断

    高校生でバンドを作った1968年から活動をともにしてきたオリジナル・メンバーの破廉ケンチが、うつ病でギターが弾けなくなってメンバーから外れたのは、結成から10年目を迎えた1977年の夏だった。 そのためにRCサクセションはアコースティックのトリオからロック・バンドに変貌することを目指して、2年近い紆余曲折の期間を経たにもかかわらず、結成以来のメンバーが忌野清志郎と小林和生だけになってしまった。 ところがが1978年1月18日、カルメン・マキ&OZのギタリストだった春日博文が「屋根裏」のライブに前触れもなく、アンコールで乱入してきたことをきっかけに一気にメンツが揃っていく。 春日のステージングに目を見張った忌野清志郎は、終演後にバンドへの参加を要請している。そして「ドラマーを変更すること」を条件に春日はギタリストとしてに参加し、忌野清志郎にはギターを弾かないでヴォーカルに専念することを提案し

    KISSの武道館公演をNHKテレビの『ヤング・ミュージック・ショー』で見て感激した忌野清志郎の決断