先日の読書会にて、ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか――新自由主義の見えざる攻撃』(中井亜佐子訳、みすず書房、2017年)を扱いました。 本書の主要な主張は「経済化」ということです。すなわち、「新自由主義的合理性」の下で、政治や教育など「かつては経済以外のものであった領域、活動、主体」(28頁)が経済的な語彙、思考法、評価基準、行動様式の浸透を許し、人びとはあらゆる場所で「ホモ・エコノミクス」であるほかなくなっていくということが、ミシェル・フーコーの統治性研究を理論的準拠点として、またガバナンス、企業の選挙運動、大学などを例として語られます。 しかしながら、このように「政治」と「経済」を領域的に区分しようとする発想は、非常にナイーブで、問題含みのものです(フーコー自身がそれを戒めていたのではないでしょうか)。政治や経済というのは人びとの相互作用における機能・形式の一
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