タグ

2012年9月9日のブックマーク (6件)

  • 『中東の貧困とイスラム政党(2)』

    イスラム政党と「スラム」政党 こうした格差と隔離と疎外の中で暮らし、政府に見捨てられた人々に救いの手を差しのべたのが、イスラム系の組織であった。トルコの公正発展党であり、エジプトのムスリム同胞団であった。あるいはパレスチナのハマスであった。 こうした組織は、それぞれの地域での最大の福祉機関であり、人道NGOである。人々はモスクに集まり、農村のコミュニティの暖かさの代わりを求めた。モスクを拠点とするイスラム組織が、その暖かさを提供した。 そもそも中東では、欧米式の教育を受けたエリートたちや、地方の地主たちを支持基盤として政党が結成された。大半の政党は、そのエリートたちや地主層のために活動してきた。そして、第2次世界大戦後に多くの国々で軍がクーデターによって実権を握った、やがて軍事政権が退場すると、後に軍の意向を反映した政党が残った。いずれも貧しい人々に訴えようとの姿勢の政党ではなかった。 そ

    『中東の貧困とイスラム政党(2)』
    castle
    castle 2012/09/09
    「中東では欧米式教育を受けたエリート達や地方地主達を支持基盤として政党が結成された。大半の政党はそのエリートたちや地主層の為に活動。そして第2次大戦後に多くの国々で軍がクーデターによって実権を握った」
  • 高橋洋一(嘉悦大) on Twitter: "これだとデフレ維持の範囲での金融緩和。目標はマイナス物価上昇率、せいぜいゼロということになってしまうけど、それでいいの?←自民・石破氏:政府・日銀連携強化で日銀法改正も-総裁解任権は反対 - Bloomberg http://t.co/2uzTx4tm"

    castle
    castle 2012/09/09
    「これだとデフレ維持の範囲での金融緩和。目標はマイナス物価上昇率、せいぜいゼロという事になってしまうけどそれでいいの?←自民・石破氏:政府・日銀連携強化で日銀法改正も-総裁解任権は反対 http://t.co/2uzTx4tm
  • 日本の元首 - Wikipedia

    前掲書によると、「元首(英:the head of state, 独:Staatsoberhaupt)」という概念は君主制末期に、国家有機体説と結びついて発明された[10]。そこでは君主は国家の諸活動の源泉とされ、人間の諸活動の源泉である頭脳になぞらえて、「元首」と表現された[9]。「元首」という概念は、かつて生成期には「君主」と密接不可分であったが、そこから離れて共和制の「大統領」をも「元首」と考えるようになった[9]。そして徐々に、行政権の担い手としての性格が希薄化していき、「国家を対外的に代表する資格(具体的には、条約締結権を含む外交問題処理の権能)」を有することが「元首」の基準として用いられるようになった[9]。したがって、対外的代表権を判断基準にするならば「象徴天皇は『元首』に当たらない」と考えられている[9]。 政府の公式見解としては、対外的に我が国を代表する地位にある天皇を元

    castle
    castle 2012/09/09
    「天皇が国家元首と同様に取り扱われる慣例として、外国訪問時に大統領や君主同様の外交特権があること、外国での礼砲は21発で迎えられること、過去3回の日本開催のオリンピック開会宣言を行うことなどがある」
  • 元首 - Wikipedia

    現在、就任している国家元首(写真左→右、上→下へ) 絶対君主制の元首 サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ(国王) 大統領制の元首 ジョー・バイデン(大統領) ディナ・ボルアルテ(大統領) 半大統領制の元首 エマニュエル・マクロン(大統領) 一党独裁制の元首 トー・ラム(国家主席) 名誉職型大統領制の元首(議院内閣制) サロメ・ズラビシュヴィリ(大統領) ドラウパディ・ムルム(大統領) 立憲君主制の元首(議院内閣制) チャールズ3世(国王) カール16世グスタフ(国王) 元首(げんしゅ、国家元首、ラテン語: dux civitatis、フランス語: chef d’État、英語:Head of state[1])とは、国の首長または、国家を外に向って一般的に代表する資格をもつ機関[2]。 歴史的には、三権を統合する国家の統治者としての絶対君主(皇帝、国王など)を指したが、三権分立が広がる

    castle
    castle 2012/09/09
    「国家元首の概念は国家有機体説に発し、独立の生命体として国家をとらえた場合の頭に相当する部分であることに由来する。社会契約説の国家観の下では社会的な委任契約における社会的人格の一つ」
  • 阿倍仲麻呂 - Wikipedia

    阿倍仲麻呂(『前賢故実』より) 阿倍 仲麻呂[1](あべ の なかまろ、文武天皇2年〈698年〉[2] - 宝亀元年〈770年〉1月)は、奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。中務大輔・阿倍船守の長男[3]。弟に阿倍帯麻呂がいる。 唐名を「朝衡[4]/晁衡」(ちょうこう)とする。唐で国家の試験に合格または推挙で登用され[5]唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日への帰国を果たせずに唐で客死した。 なお小倉百人一首では安倍仲麿と表記される。 生涯[編集] 阿倍仲麻呂(百人一首より) 文武天皇2年(698年)阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)多治比県守が率いる第9次[6]遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。同次の留学生には吉備真備や玄昉、井真成がいた[7]。 唐の太学で学び科挙に合格または推挙で登用され、

    阿倍仲麻呂 - Wikipedia
    castle
    castle 2012/09/09
    「続日本紀に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣(吉備真備)及び朝衡の二人のみ」と賞され~死去した後、彼の家族が貧しく葬儀を十分に行えなかったため日本国から遺族に絹と綿が贈られた記述が」
  • 【百人一首講座】天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも─安倍仲麿 京都せんべい おかき専門店【長岡京小倉山荘】

    castle
    castle 2012/09/09
    「安倍仲麿は遣唐使として唐に渡り、そこで驚くような秀才ぶりを発揮して玄宗皇帝のお気に入りとして高位の役人になった人です。しかし、あまりに気に入られたため、日本に帰ることを許してもらえませんでした」